今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 階段を駆け上がって来る音が聞こえてきた。急に安寿の胸の鼓動が早まった。安寿はあわてて絵本を開いて目を落とした。

 「待たせたな、安寿」

 航志朗が明るい声を出して言った。

 安寿は顔を上げて微笑を作ったが、気持ちは見た目とは裏腹だ。

 (ぜんぜん待ってなんかいないのに)

 当然のように航志朗は安寿の隣に座り、身体を寄せて肩を抱いてきた。安寿は航志朗が自分を熱いまなざしで見つめていることに気づいているが、目線を合わせられない。

 「安寿、一緒に絵本を読んでもいいか?」

 「……はい」

 安寿は絵本の最初のページを開きゆっくりとページをめくるが、指の先が震えてくる。航志朗は安寿の頬に顔をすり寄せて、今にもキスしてきそうだ。一方で、安寿は身体の奥が熱くなってきているのも感じていた。もうひとりの自分は航志朗の身体を求めている。思いきり抱きしめられて何もかも忘れさせてほしいと思ってしまうほど激しく。

 安寿の呼吸が荒くなっていった。航志朗はそれに気づいて声をかけた。

 「……どうした、安寿?」

 安寿は息を何回も激しく吸ったり吐いたりし出した。ものすごく息苦しくなって涙がにじみ出てくる。

 すぐに航志朗は安寿の背中をさすって意識してゆっくりとした口調で言った。

 「安寿、落ち着いてよく聞け。俺の言う通りにするんだ。吸った息を十秒でゆっくり吐き出せ。さあ、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十……、また息を吸って軽く息を止めて、一、二、三……」

 何回も航志朗の言う通りに繰り返すと安寿の呼吸はだんだん落ち着いていった。航志朗は安寿をそっと抱きしめた。

 安寿は航志朗にしがみついてうめいた。

 「航志朗さん、私、あなたと、……できない」

 「わかってるよ、安寿。安心しろ、俺は、これ以上、君に触れないから」

 驚いた安寿が航志朗の顔をのぞき込むと、航志朗は優しい笑顔で安寿の瞳を迎えた。そして、航志朗は安寿の額にそっとキスした。

 「これはいい? あ、事後確認だな。……ごめん」

 思わず目を潤ませた安寿は航志朗に唇を重ねて言った。

 「これは、いいです……」

 我慢できずに航志朗がくすっと笑うと、安寿も頬に涙をこぼしながら微笑んだ。ふたりはしっかりと抱き合った。航志朗は安寿の耳元で優しく包み込むように言った。

 「とにかく今は休もう。これからのことは、ふたりで一緒に考えていこう」

 安寿の身体をベッドに横たえて、航志朗は安寿の髪を愛おしそうになでた。安寿は航志朗の胸に顔を押しつけた。

 ふと心配になって安寿が尋ねた。

 「航志朗さん、眠れそうですか?」

 航志朗は苦笑いして言った。

 「前にも言っただろ、安寿。俺は君と一緒にいるだけでぐっすり眠れるよ」

 そう言うと、航志朗は目を閉じていびきをかくまねをした。

 「もう、航志朗さんはいびきなんてかかないのに……」

 「そうか? 中年になったら、ひどいいびきをかくようになるかもしれないだろ。でもその時は我慢しろよ、安寿。俺は絶対に君と寝室を別にするのは嫌だ」

 「……寝室を別にする?」

 「俺の両親も祖父母も寝室が別だった。あの屋敷で」

 「どうしてですか?」

 「愛し合っていなかったんだろ。子どもの頃はなんとも思わなかったけど」

 「そうですか……」

 安寿はその航志朗の言葉が妙に心の奥に引っかかった。

 安寿はベッドのかたわらに立て掛けられた航志朗が描いた花畑の絵を見つめた。真っ暗な部屋の中で、その絵は優しい光を放って輝いているように見える。航志朗の強い光を帯びた琥珀色の瞳のようだ。

 (私、航志朗さんの絵も本当に好き……)

 航志朗の寝息が聞こえてきた。もちろん、いびきはかいていない。安心感に包まれる穏やかな寝息だ。安寿はそっと航志朗の胸に顔をうずめた。

 (これでよかったんだ。航志朗さんと一緒にいられるのは、あと一年半。離婚する彼との子どもができる可能性はなくなったし、あの終わった後の虚しい気持ちにももうならない。本当にこれでよかったんだ。……きっと)
< 379 / 471 >

この作品をシェア

pagetop