今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 一限は油絵学科の小柴ゼミの講義だった。先に安寿と航志朗は小柴の研究室にあいさつに行った。ちょうど小柴は好物のココアをスプーンでかき混ぜながら啜っているところだった。

 「小柴教授、初めまして。安寿の夫の岸航志朗と申します。いつも妻がお世話になりましてありがとうございます。今後ともなにとぞよろしくお願いいたします」
 
 丁寧に航志朗は小柴に頭を下げてあいさつすると、『菓匠はらだ』の菓子折りを手渡した。目を細めて小柴は遠慮なく受け取り、すぐに箱を開けて中に入っていた最中を二個立て続けにむしゃむしゃと口にした。思わず安寿と航志朗は顔を見合わせた。

 「あー、これは失礼、失礼。今朝、朝食(あれ)を食べてこなかったもので、腹がへっていてね」

 顔色ひとつ変えずに航志朗が言った。

 「それはお役に立ててよかったです」

 安寿は航志朗の隣で肩をすくめた。

 「そろそろ時間(あれ)だな。さて、岸さん、実技教室に行きますか。よろしかったらハズバンドもご一緒にいらして、授業参観をされてはいかがですか? いや、講義参観というべきかな」

 小柴は自分が発した言葉に可笑しそうに一人で笑った。

 あわてて安寿は首を振って言った。

 「航志朗さん、私はもう大丈夫です。お昼すぎには大学を出ますから、先に帰っていてください」

 「いや、大学の構内で待っているよ。君が心配だから」

 ふたりのやり取りに小柴は鼻の下を伸ばした。急に小柴は鼻水がたれそうになって、よれよれのジャケットの内ポケットから丸まったハンカチを取り出してぬぐいながら言った。

 「では、ハズバンドの方の岸さん、ここでお待ちください。どうぞ、ココア(あれ)でもお飲みになって。あなたの大事なワイフは、私、小柴が責任を持ってお預かりいたしますから」

 上機嫌で小柴は微笑んだ。

 安寿と小柴は研究室を出て行った。先を歩く小柴は振り返って安寿に言った。

 「岸さん、ずいぶんとハンサムなハズバン(あれ)ドですね。赤ちゃんのお顔を見るのが今から楽しみですね」

 心から愉しそうにふくれた腹をなでながら小柴は笑った。

 思わず安寿は赤くなって下を向いた。

 「まあ、その前に、あと一年半の大学生活をがんばってくださいね、岸さん。僕も微力ながら応援しますので。たいへんけっこうな贈り物をいただいてしまいましたしね」

 安寿は小柴に向かって小さく微笑んだ。周囲から軽く見られがちな小柴の鈍重で風変わりな様相は、不思議と安寿の気持ちをいつも和ませてくれる。

 「ところで、さっきいただいたあのお菓子、非常においしかったです。(あれ)に内緒で、全部僕がいただきます」

 「小柴教授、それはだめですよ。ぜひ奥さまとご一緒に召しあがってくださいね」

 「……はあ」

 小柴はふわふわの白髪頭を斜め下に落とした。とぼけた小柴の様子が可笑しくて、安寿は口を押さえてくすっと笑った。

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