今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 十一月に入った。予定通り銀座の黒川画廊で岸の個展が開催された。ダークネイビーのスーツを着て安寿は受付に立った。隣には伊藤がいて、朝から緊張ぎみの安寿を安心させるように、温かいまなざしで安寿を包んだ。

 四階のオフィスから華鶴と岸が降りて来た。人目を引く華やかなブラックのラメジャージーのプリーツワンピースをまとった華鶴は、上品なブラウンのジャケットを着た岸と腕を組んでいた。招待客たちの前でふたりは仲がよさそうに微笑み合った。誰から見てもうらやましがられるような夫婦の姿がそこにあった。安寿は華鶴と岸を黙って見つめてから、視線を下に落とした。

 受付で安寿は淡々と事務作業をこなした。何も難しいことはない。招待客がやって来たらノートパソコンの顧客ファイルのチェックボックスにレ点を入れて、その客の情報を確認する。そして、客の好みのウエルカムドリンクを用意して客にサーブする。たったのそれだけだ。あとは微笑みを浮かべていればいい。

 安寿は見覚えのある和服姿の若い男に話しかけられた。

 「あれ、君って白戸さんのお嬢さんでしょ?」

 彫刻家の川島だ。久しぶりに聞く「白戸」の名前に、安寿は胸がどきっとした。つい安寿は川島に本当のことを言ってしまった。

 「私は、白戸恵の姪です」

 にやけた顔をして川島は安寿をじろじろ見て言った。

 「白戸さんって、渡辺編集長と電撃結婚してドイツに行ったんでしょ? あ、元編集長か」

 しぶしぶ安寿はうなずいた。

 「彼女、未婚だったんだ。なかなかの美人だったから、声をかけておけばよかったな。で、君の方は岸家にお嫁入り?」

 左手の薬指に川島の視線を感じて安寿は返答に困った。

 岸が安寿の様子を見とがめてすぐにやって来て言った。

 「安寿さん、オフィスの方で頼みたいことがあるのですが。川島先生、失礼いたします」

 岸は安寿の手を取ると奥の階段に引っぱって行った。数人の客と談笑していた華鶴が安寿と岸を目で追った。四階に上がるまで岸は安寿の手をしっかりと握っていた。安寿は胸がどきどきした。岸は事務所のソファに安寿を座らせると奥に行っていつものハーブティーを淹れてきた。「どうぞ、安寿さん」と言ってティーカップを安寿の前にそっと置いた。礼を言って安寿はハーブティーをゆっくりと啜った。少しだけだが緊張がほぐれた。

 岸もひと口飲んでから安寿に言った。

 「川島先生がおっしゃられたことを気にしないでください。彼は、ああいう人物なんです」

 小さく安寿はうなずいた。

 岸は安寿を穏やかに見つめて言った。

 「安寿さん、疲れたんじゃないですか?」

 安寿は苦笑を浮かべてそれに答えた。ティーカップを揺すってできた黄色い波紋を見ながら、岸はひとりごとを言うように言った。

 「裏表のあるひとたちとの付き合いは、本当に消耗しますよね。私の周りは、ずっとそんなひとたちばかりだった。……彼女以外は」

 一瞬だけ安寿は岸の陰りを帯びた琥珀色の瞳を見つめた。

 (きっと、岸先生が前におっしゃっていた方のことを言っているんだ。昔、心から愛していらっしゃったひとのことを……)

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