今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は照明が消えて真っ暗な役所の前に立った。それは、はるかな昔に非業の最期を遂げた誰かを追悼した巨大なモニュメントのようだった。

 その時、航志朗はどろどろとした真っ黒い液体がじわじわと足元からわきあがってくるのを感じた。いつかきっと、自分は安寿をひどく傷つけ損なってしまうだろうという身も心も震えるような予感が航志朗を襲った。ヴァイオレットの曾祖母に言われた警告を思い出す。現に今日、自分は安寿に大けがをさせてしまっている。

 (まだ間に合う。今なら安寿との結婚を取り止めにできる。彼女を傷つけ損なってしまう前に……)

 しかし、航志朗は本能でわかっていた。安寿と結婚するのは今しかないと。今を逃したら、二度とその機会は自分にめぐって来ない。

 (俺は心の底から安寿を愛している。俺は安寿が欲しい。この気持ちはもう止められない。たとえ彼女が俺を愛してくれなくても)
 
 持てる力を振り絞って航志朗は安寿の右手を強く握った。安寿は驚いて航志朗の顔を見上げた。

 「安寿、行くぞ」

 「はい」

 安寿と航志朗は建物のかたすみにある夜間窓口に向かった。窓口には制服を着た若い男が座っていて何やら書き物をしていた。

 「婚姻届の提出をしたいのですが」と航志朗は男に落ち着いた声で言った。男はあっさりと婚姻届を受け取ってから、窓口の隣にあるドアから出てきて、航志朗に手を出して面倒くさそうに言った。

 「スマホ」

 「は?」

 航志朗は怪訝な顔をしてその男を見た。

 「スマホ。記念写真を撮りますよね? そこに並んでください」

 男は灰色の壁を指さして、廊下の電気をつけた。いきなり周囲が明るくなった。航志朗と安寿は顔を見合わせた。航志朗は半信半疑でスマートフォンを男に渡した。男は安寿に婚姻届を持たせてスマートフォンを構えた。そして、「はい、上半身アップと全身の二回撮りますよ」としごく事務的に言った。何億回も繰り返してきた退屈な作業かのように。

 安寿はとても困った。どんな顔をしたらいいのだろう。すると航志朗はしっかりと安寿の肩に手を回して引き寄せた。安寿は胸をどきっとさせて顔を赤らめた。

 その瞬間、シャッター音が鳴り響いた。

 ふたりが車に戻ると、航志朗は「さすが世界に誇れる日本のサービス精神だな。最近の役所は記念撮影までしてくれるのか」と言って笑った。そして、「で、安寿、今夜はどこに泊まる?」と当然のことのように尋ねた。身を固くした安寿の胸の鼓動が早まった。

 「俺のマンションに泊まるか? それとも君の家? ああ、ホテルに泊まってもいいな」

 (ええっ! ちょっと、いきなりそういうことになるの。どうしよう……)

 安寿は顔を真っ赤にして両手を握りしめた。

 安寿はやっとの思いで言った。

 「あ、あの、私、家に帰ります。一人で大丈夫ですから」

 「一人で? 何言ってるんだ。足をけがしているんだぞ。大地震でも来たらどうするんだよ、逃げられないだろ。今夜は俺と一緒にいろよ」

 うつむいた安寿は返事ができずに、汗ばんだ両手をまた握りしめた。

 「ああ、そうか。君はけがしているから、自分の家に帰った方が休めるよな。じゃあ、俺が君の家に泊まる」

 「……はい?」

 (確かにそうだけど、あなたと一緒じゃ休めないってば!)と安寿は心のなかで叫んだ。

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