今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 年明けの大学の講義は二週間で終了し、その後、後期試験があった。そして、一月の終わりに清華美術大学の三年次が修了した。大学は四年次が始まる四月上旬までの長い春期休暇に入った。

 岸家の自室で、モデルのドレスに着替えた安寿は薄暗い窓の外を見た。今日も小雪が時折ちらついている。天気予報通りに二月に入ってから極寒の日々が続いていた。

 ウールのロングカーディガンを羽織った安寿は真っ白な息を吐いて両手を擦り合わせながら、岸のアトリエに小走りで向かった。

 アトリエのドアを開けると、すでに岸がイーゼルの前に座って油絵を描いていた。カウチソファの近くには、石油ストーブが赤々とした炎を灯している。

 岸に朝のあいさつをした安寿は躊躇なくロングカーディガンを脱いで、カウチソファの上に立膝をし両腕を上げてモデルのポーズをとった。まだ手の指先がかじかんでいるが動くことはできない。それに気づいた岸は静かに椅子から立ち上がると安寿の前に来て、安寿の手を自らの手で包んで温めた。その岸の手の温かさに安寿は微笑んだ。岸は黙って安寿の黒髪を優しくなでると、イーゼルの前の椅子に戻って行った。

 岸の筆致はいつになく早い。すでに白いドレスを着た安寿の姿は、キャンバスの上にありありと姿を現している。朝から晩まで一日中、岸は作品に向かっているようだ。

 ポーズを取りながら安寿は眉を寄せて岸の姿を見つめた。岸は意気盛んに画筆を動かし、今まで見たことがないくらいの情熱的なまなざしを向けてくるが、その顔色は青白く頬が落ちているようにも見える。それが安寿には気がかりでならない。

 今年に入ってから、一度も岸と食事を共にしていない。咲の話だと、最近めっきり岸の食が細くなったらしい。

 食事室で一人で昼食をとった安寿は、咲に岸の昼食を部屋に持って行くように頼まれた。安寿はサンドイッチが収められた藤製のバスケットとスープジャーに入れたカボチャのスープをトレイにのせて岸の自室に向かった。

 岸の自室はアトリエの奥にある。アトリエがある岸家の離れには浴室もトイレもさらにはミニキッチンもあり、岸は安寿が岸家で暮らすようになってから、食事以外はほとんど岸家の離れで過ごしていた。

 安寿は岸の部屋のドアをノックした。だが、しばらく待っても返事がなかった。このまま母屋の台所に戻ろうかと安寿は思ったが、心配になって少しだけドアを開けて部屋の中をうかがった。

 真冬の冷えきった暗い部屋で、腕組みをした岸が一人掛けのソファにもたれかかって眠り込んでいるのが見えた。

 (このままだと、岸先生が風邪をひいてしまう)

 安寿は岸の部屋の中に入るとローテーブルの上にトレイを置いてから、ベッドの上にたたんであった毛布を取って来て岸に掛けようとした。

 その時、岸が色褪せたスケッチブックを胸に抱えていることに気づいた。安寿は岸を起こさないようにそっとスケッチブックを岸の腕の中から外すとソファに立て掛けて、岸に毛布を掛けた。微動だにせずに岸は眠り込んでいる。

 唇を固く閉じて安寿は岸の顔を見つめた。

 (岸先生、とても疲れているみたい……)

 安寿が隣のアトリエに行こうとした時に、ぱたんと乾いた音を立ててスケッチブックが倒れた。安寿はスケッチブックを手に取ってローテーブルに置こうとした。その時、開いていたスケッチブックの一ページがふと安寿の目に入った。

 「……えっ?」

 安寿は目を大きく見開いた。黄ばんだスケッチブックのページには、長い黒髪の女の姿が描かれてあった。どこかで見たことがある女の絵だ。一瞬、自分をモデルにした絵かと思ったが、すぐに安寿はその思いを打ち消した。

 しばらく安寿は呆然と立ちつくした。やがて、それに気づいて安寿は身体じゅうががくがく震え出した。

 (この女のひと、……私のママだ!)

 目を閉じた岸の顔を安寿はじっと見つめた。何かに追いつめられたように安寿は次々にスケッチブックのページをめくって、そこに描かれている絵を全部見た。安寿の記憶のなかの母とはまったく印象が違うが、確かに亡き母の姿だ。

 そこには、生き生きとした若くて美しい女の姿が閉じ込められていた。

 女はこちらをまっすぐに見つめている。すべてのページに描かれた女と視線が合う。可愛らしいまなざしで恥ずかしそうに微笑み、ときには艶っぽい視線を送ってくる。これは明らかに恋をしている女の瞳だ。

 急いでスケッチブックを閉じてまたソファに立て掛けると、安寿は逃げるように岸の部屋から出て行った。心臓が口から飛び出してしまいそうなほどにどきどきしている。頭がくらくらして吐き気もしてきた。薄暗い岸家の中を走って安寿は自室に戻った。ばたんと大きな音を立ててドアを閉めるとベッドに座って、安寿は身体じゅうを震わせた。

 (いったいどういうことなの。昔、ママも岸先生のモデルをしていて、そして、ふたりは愛し合っていたの?)

 ブックシェルフの天板(てんばん)に置いた航志朗が描いてくれた花畑の絵を安寿は見上げた。そこだけは陽だまりのような明るい光を宿している。苦しそうに安寿は顔をゆがめた。

 (航志朗さんは、このことを知っているの? たぶん彼は知らない。ママと岸先生は大学で出会って、なんらかのいきさつでママは岸先生のモデルになった。そして、ふたりは愛し合った。岸先生には、小さい子どもだった航志朗さんと妻の華鶴さんがいらっしゃるというのに)

 突然、それに気づいた安寿は悲鳴をあげそうになって、口を両手で強く押さえた。

 (ママが亡くなった場所は、岸家(ここ)から駅に向かう途中にある川だ。きっと、あの日に何かあったんだ、……ここで)

 安寿は父の油絵の道具が入った箱がしまってあるクローゼットの扉を見つめた。

 (でも、どうして私はあの古閑康生さんの子どもなの? 全然わけがわからない)

 力なくベッドから立ち上がると安寿は窓辺に行って、重い鉛色の空を見上げた。今にも雪が降ってきそうだ。窓を開けると刺すような冷たい空気に肌が触れたが、そのまま安寿は身をさらした。

 (あの絵が完成したら、私はこの家を出て行かなくちゃ。もう航志朗さんと一緒にいられない。私は子どもの頃の彼を傷つけた女の娘なんだから)

 安寿の瞳の色が真っ黒になった。白いドレスだけを身にまとって裸足で安寿は岸のアトリエに向かった。

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