今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第10節

 年季が入った椅子に咲は座り込んでいた。三十年前、岸家で働きはじめた時にはすでに台所に置いてあった椅子だ。岸家で食事を用意してきた家政婦たちが、様々な想いを抱えながら仕事の合間にひと息ついて座ったのだろう。咲はこれもまたずっと台所に掛けられている古い柱時計を見て、深いため息をついた。どうしようもなくあふれ出てくる涙を割烹着の裾で拭きながら咲は考えた。

 (おふたりのために、私はいったいどうしたらいいのかしら……)

 うなだれた伊藤から咲は安寿と航志朗の本当の関係を聞き出した。驚いたことに、ふたりは四年も前に婚姻届を提出して夫婦になっていた。その結婚には契約が定められていた。そのうちの一つが有効になり、安寿と航志朗は離婚しようとしている。

 (そんなこと、絶対にあってはならないわ。あんなに愛し合っているおふたりが別れるなんて)

 その時、ふと恵真の顔が咲の脳裏に浮かんだ。咲はその穏やかに微笑む恵真に向かって心から誓った。

 (大奥さま、安寿さまと航志朗坊っちゃんをどうか天国から見守っていてください。私もおふたりを全力でお守りいたしますから)

 咲は勤務していたある養護施設で岸恵真と出会った。その私設の養護施設は、身寄りのない子どもたちを自立するまで無償で預かる施設だった。咲は音楽大学で声楽を専攻していた二十歳の時に、家族全員を突然の事故で亡くした。身寄りがなくなった咲は大学を中退して、働きながら保育士の資格を取った。施設で咲は赤ちゃんや幼児の世話を任された。もともと咲は幼い子どもの世話に慣れていた。両親と一緒に逝った年の離れた弟たちの世話をしていたからだ。

 その日、咲は泣いてぐずった赤ちゃんを抱きながら美しいメロディーを口ずさんでいた。心が折れてしまいそうになる時に必ず口ずさむショパンのノクターン第二番だ。やっと腕の中の赤ちゃんが寝つくと、突然、後ろから澄んだ声をかけられた。

 「……あなた、ショパンがお好き?」

 振り向いた咲は口をぽかんと開けた。そこには、ブルネットで琥珀色の瞳をした上品な夫人が立っていた。その襟元にあしらわれたフリルが白い羽のように見えた。窓から入って来る午後の柔らかな陽ざしを背に、夫人はそこに静かにたたずんでいた。それは西洋の肖像画のようだった。その夫人には見覚えがあった。この施設に金銭的な援助をしているどこかのお金持ちの奥さまだ。その夫人はじっとその琥珀色の瞳で咲を見つめた。何もかも見通されてしまいそうなくらい透き通った美しい瞳をしていた。咲が初めて見る瞳の色だった。そして、その夫人は丁寧な口調で咲に言った。

 「よろしかったら、私の屋敷にいらっしゃっていただけませんか? 生まれたばかりの孫の世話をしていただきたいの」

 すぐに咲は返事をした。「はい。かしこまりました。どうぞよろしくお願いいたします」と夫人に頭を下げた。

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