今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 朝食の後片づけを航志朗は手早く、しかも完璧に済ました。航志朗は安寿が描いた小さな紙をソファの下から取り出して言った。

 「このバースデーカード、もらうよ。ありがとう、安寿」

 それをすっかり忘れていた安寿は真っ赤になって恐縮して言った。

 「子どもっぽいですよね。ごめんなさい」

 そして「まだ描きかけなんです」と安寿は言って、航志朗の手から紙を受け取り、ローテーブルの上の色鉛筆の箱を開けてブラウン系の色鉛筆を数本取り出して色を塗り始めた。

 航志朗は安寿の隣からのぞき込んでつぶやいた。

 「チョコレートケーキ、なんだな」

 安寿が色を塗りながら言った。

 「岸さんはチョコレートがお好きなんじゃないかなと思って。だって、昨日、いちばんはじめにチョコチップの入ったチョコレートドーナツを取って食べていたでしょう?」

 恥ずかしそうに安寿は微笑んだ。
 
 航志朗の頬が一瞬で紅潮した。

 「あ、……そうだったな」

 (ああ、もう可愛いすぎてたまらないな)

 航志朗は安寿を思いきり抱きしめたいと思ったが、まだよそよそしい態度の安寿に対して気が引けてそれはできなかった。

 (それにしても、昨夜の彼女はなんだったんだ。確かに俺に抱きついてきたよな。俺の哀れな妄想じゃないよな。左肩が湿った感覚をはっきりと覚えているし……)

 左足の包帯を巻き直して出かける準備をしてから安寿が言った。

 「白戸家のお墓は祖父母の家があった市内の外れのお寺にあるんです。ここからかなり遠いですよ」

 「構わないよ。君が八年前まで住んでいた町にあるんだね」

 安寿はうなずいた。

 玄関に鍵をかけて、安寿と航志朗が団地の共用廊下を通りエレベーターを待っていると、反対側から走ってやってきた子どもに声をかけられた。その子どもは不審そうに航志朗を見上げて言った。

 「安寿、そのおっさん、誰?」

 サッカーボールを持った小学校三、四年生くらいの活発そうな男の子だ。

 「ええと、親戚のひと。颯太(そうた)くん、おっさんじゃなくて、おじさんでしょ?」と言って、安寿は航志朗に気を遣って颯太をたしなめた。

 航志朗は心のなかで反論した。

 (安寿、全部違うだろ。夫でお兄さんだ)

 やがてエレベーターが到着して、三人は一緒に乗り込んだ。密室で航志朗は颯太の敵意丸出しで自分をにらんでいる視線を感じた。

 (やれやれ……。こいつ、安寿が好きなんだな)

 一階に着くと颯太はまっさきに降りて、安寿に「じゃあな、安寿。足、気をつけろよ」と言って、航志朗を一瞥して走り去って行った。

 「颯太くん、同じ階に住んでいるんです。彼が一年生の時、団地の桜の木の下で泣きながら絵を描いていたので声をかけたら、『今日が夏休み最後の日なのに、まだ宿題が終わっていないんだ』って言っていて。それで、私、ちょっと手伝ってあげたんです。そうしたら、その絵、全国コンクールで最優秀賞を取っちゃって……」と安寿は困ったように説明した。

 「そうか、やってしまったんだな」と肩をすくめた航志朗の言葉に、安寿は苦笑いしながらうなずいた。

 安寿は団地内で顔見知りが多いらしく、すれ違う人びとににこやかにあいさつをしていた。そのほとんどが高齢者だった。彼らは目尻にさらに深いしわを寄せて嬉しそうに安寿を見て、安寿の隣にいる航志朗をあきらかに胡散臭そうに見ていった。

 (安寿はお年寄りにも人気があるんだな。そうだよな、俺の安寿だものな)と航志朗は自慢げに思った。

 車に乗り込もうとした時に安寿は振り返り、新緑の桜の木々に囲まれた団地を仰ぎ見て思った。

 (私はここを出て行くことになったんだ。颯太くんや団地の皆さんともお別れなんだ。……あの桜の木々とも)

 風が吹いて来て、肩まで伸びた安寿の黒髪をなびかせた。安寿は鼻の奥がつんとしたが、もう二度と振り返らなかった。

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