今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
次の日の午後、安寿と航志朗はマンションのエントランスでノアを出迎えた。タクシーから降りて来たノアは目を細めて安寿を柔らかく抱きしめるとその両頬にビズをした。ノアの唇は安寿の頬に触れてはいないが、上品な香水の匂いがする端正な美青年のノアの姿に安寿は両頬を赤らめた。それに気づいた航志朗は大人げなく唇をとがらせた。
ふたりはアタッシェケースを手に提げたノアをマンションに迎え入れた。リビングルームに入るとノアは微笑みを浮かべた。甘い香りが鼻をくすぐったのだ。安寿がチョコレートケーキをノアのために焼いていた。
ダイニングテーブルに向かい合わせで座った航志朗とノアはフランス語で話しはじめた。改めて安寿は航志朗の語学力に感心した。
安寿は胸に手を当てた。どきどきしている。外国からやって来た初対面の男に手料理を出すのだ。
(大丈夫かな。生焼けじゃないといいけれど……)
安寿は冷ましておいたチョコレートケーキを注意深く切り分けた。包丁についたケーキを指先に取り口に入れて味見してみた。自分ではおいしいと思うが、客の口に合うのかはわからない。安寿は紅茶を淹れて生クリームを添えたチョコレートケーキと一緒にダイニングテーブルに運んだ。深刻そうな顔で話をしていた航志朗とノアが微笑んで安寿を見た。
安寿はフランス語でおずおずと言った。
「お召しあがりください」
「アリガトウゴザイマス」
丁寧に日本語で礼を言ったノアは安寿が焼いたチョコレートケーキを口に運んで言った。
「おいしい、アンジュ!」
安寿はほっとため息をついた。
すかさず航志朗が日本語でつぶやいた。
「当然だろ、俺の安寿が焼いたんだから」
航志朗とノアの目の前には、上質な紙に何かの文章が整然と印刷された文書のようなものが分厚い束になって置いてあった。一度、深呼吸をしてから、航志朗は安寿に説明した。
「安寿。ノアは、俺の曾祖母の妹の息子の養子なんだ。彼の他にもたくさんの養子がいる。彼らの父親のデュボア氏は、遺言で血の繋がった俺に遺産を残した。想像もできないほどの莫大な金額だ。余裕であの森を取り戻せるくらいの」
安寿は内心で驚いたが、航志朗はまったく嬉しそうな顔をしていない。安寿には航志朗の次の言葉がじゅうぶん予想できた。
「安寿、俺はデュボア氏の遺産をすべて放棄する。その遺産は俺にとって必要ではない。俺は自分で必要なだけの金を稼げるからだ。賛同してくれるか? 俺の妻として」
平然と安寿はうなずいて答えた。
「もちろん、私はあなたの妻として賛同します、航志朗さん」
安寿と航志朗の信頼し合った様子にノアは驚嘆した。ノアにとってまったくの予想外の展開だった。
航志朗はノアの隣に立ってその肩に手を置くと、くだけた口調になって言った。
「すべて君に任せるよ、ノア。君ならデュボア家の遺産を有意義に生かせる」
「コーシ……」
「もちろん、何かあったら相談にのる。俺は君たちのきょうだいだからな」
ノアはあふれ出た涙をシャツの袖でぬぐった。ノアの姿を見て安寿は涙ぐむと航志朗を仰ぎ見た。
「ところで、いつまで東京にいる予定なんだ?」
「今夜のフライトで、いったんパリに行きます」
「わかった。皆によろしく」
航志朗とノアは固く抱き合った。
ノアは運んで来たアタッシェケースを航志朗に手渡した。その中には、初めて岸が安寿を描いた作品が入っていた。
「父のもう一つの遺言です。この額とスケッチブックをあなたに渡すようにと」
「そうか……」
航志朗はスケッチブックを膝に置いて表紙にそっと手を触れた。
航志朗はあの絵のことを尋ねようとした。それを察したノアが先に告げた。
「『永遠の恋人』は、遺言で父とともに葬られました。父はあんなにもたくさんの美術品を蒐集していましたが、彼が本当に心から愛した作品はあの絵だけでした」
決然とノアは続けて言った。
「コーシ、私は、父から引き継いだ美術品を無料で一般公開しようと考えています。美術品は人類の遺産でもありますから」
「俺の得意分野だな。君に協力を惜しまないよ、ノア」
意味ありげにノアは微笑んでから言った。
「コーシ、あなたはご存じないのでしょうが、実は、私はあなたと同じ大学の出身なんです。私はあなたの二年後輩なんです。私はニースであなたと会う前から、あなたのことを知っていました。いつもあなたの隣には美しい女性たちがいらっしゃいましたね」
ぎょっとして航志朗は安寿の顔を見た。静かに安寿は紅茶を啜っている。おそらくノアの不適切な発言を理解していないのだろう。ひそかに航志朗はため息をついた。
安寿は努めて静かにティーカップをソーサーに置いて思った。
(ふーん。大学時代の航志朗さんって、やっぱり女の人にものすごくもてていたんだ……)
思わず安寿はむすっと仏頂面をした。
別れ際にノアは惜しむように安寿を抱きしめてその両頬に長いキスをした。安寿の隣で航志朗は苦笑いした。真っ赤になった安寿にノアは微笑んで言った。
「アンジュ、ぜひコーシとフランスに来てください。皆であなたたちを待っています」
安寿はノアの透き通った海のようなブルーの瞳を見てうなずいた。
ふたりはアタッシェケースを手に提げたノアをマンションに迎え入れた。リビングルームに入るとノアは微笑みを浮かべた。甘い香りが鼻をくすぐったのだ。安寿がチョコレートケーキをノアのために焼いていた。
ダイニングテーブルに向かい合わせで座った航志朗とノアはフランス語で話しはじめた。改めて安寿は航志朗の語学力に感心した。
安寿は胸に手を当てた。どきどきしている。外国からやって来た初対面の男に手料理を出すのだ。
(大丈夫かな。生焼けじゃないといいけれど……)
安寿は冷ましておいたチョコレートケーキを注意深く切り分けた。包丁についたケーキを指先に取り口に入れて味見してみた。自分ではおいしいと思うが、客の口に合うのかはわからない。安寿は紅茶を淹れて生クリームを添えたチョコレートケーキと一緒にダイニングテーブルに運んだ。深刻そうな顔で話をしていた航志朗とノアが微笑んで安寿を見た。
安寿はフランス語でおずおずと言った。
「お召しあがりください」
「アリガトウゴザイマス」
丁寧に日本語で礼を言ったノアは安寿が焼いたチョコレートケーキを口に運んで言った。
「おいしい、アンジュ!」
安寿はほっとため息をついた。
すかさず航志朗が日本語でつぶやいた。
「当然だろ、俺の安寿が焼いたんだから」
航志朗とノアの目の前には、上質な紙に何かの文章が整然と印刷された文書のようなものが分厚い束になって置いてあった。一度、深呼吸をしてから、航志朗は安寿に説明した。
「安寿。ノアは、俺の曾祖母の妹の息子の養子なんだ。彼の他にもたくさんの養子がいる。彼らの父親のデュボア氏は、遺言で血の繋がった俺に遺産を残した。想像もできないほどの莫大な金額だ。余裕であの森を取り戻せるくらいの」
安寿は内心で驚いたが、航志朗はまったく嬉しそうな顔をしていない。安寿には航志朗の次の言葉がじゅうぶん予想できた。
「安寿、俺はデュボア氏の遺産をすべて放棄する。その遺産は俺にとって必要ではない。俺は自分で必要なだけの金を稼げるからだ。賛同してくれるか? 俺の妻として」
平然と安寿はうなずいて答えた。
「もちろん、私はあなたの妻として賛同します、航志朗さん」
安寿と航志朗の信頼し合った様子にノアは驚嘆した。ノアにとってまったくの予想外の展開だった。
航志朗はノアの隣に立ってその肩に手を置くと、くだけた口調になって言った。
「すべて君に任せるよ、ノア。君ならデュボア家の遺産を有意義に生かせる」
「コーシ……」
「もちろん、何かあったら相談にのる。俺は君たちのきょうだいだからな」
ノアはあふれ出た涙をシャツの袖でぬぐった。ノアの姿を見て安寿は涙ぐむと航志朗を仰ぎ見た。
「ところで、いつまで東京にいる予定なんだ?」
「今夜のフライトで、いったんパリに行きます」
「わかった。皆によろしく」
航志朗とノアは固く抱き合った。
ノアは運んで来たアタッシェケースを航志朗に手渡した。その中には、初めて岸が安寿を描いた作品が入っていた。
「父のもう一つの遺言です。この額とスケッチブックをあなたに渡すようにと」
「そうか……」
航志朗はスケッチブックを膝に置いて表紙にそっと手を触れた。
航志朗はあの絵のことを尋ねようとした。それを察したノアが先に告げた。
「『永遠の恋人』は、遺言で父とともに葬られました。父はあんなにもたくさんの美術品を蒐集していましたが、彼が本当に心から愛した作品はあの絵だけでした」
決然とノアは続けて言った。
「コーシ、私は、父から引き継いだ美術品を無料で一般公開しようと考えています。美術品は人類の遺産でもありますから」
「俺の得意分野だな。君に協力を惜しまないよ、ノア」
意味ありげにノアは微笑んでから言った。
「コーシ、あなたはご存じないのでしょうが、実は、私はあなたと同じ大学の出身なんです。私はあなたの二年後輩なんです。私はニースであなたと会う前から、あなたのことを知っていました。いつもあなたの隣には美しい女性たちがいらっしゃいましたね」
ぎょっとして航志朗は安寿の顔を見た。静かに安寿は紅茶を啜っている。おそらくノアの不適切な発言を理解していないのだろう。ひそかに航志朗はため息をついた。
安寿は努めて静かにティーカップをソーサーに置いて思った。
(ふーん。大学時代の航志朗さんって、やっぱり女の人にものすごくもてていたんだ……)
思わず安寿はむすっと仏頂面をした。
別れ際にノアは惜しむように安寿を抱きしめてその両頬に長いキスをした。安寿の隣で航志朗は苦笑いした。真っ赤になった安寿にノアは微笑んで言った。
「アンジュ、ぜひコーシとフランスに来てください。皆であなたたちを待っています」
安寿はノアの透き通った海のようなブルーの瞳を見てうなずいた。