今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
外はすでに真っ暗になっていた。交差点の時計塔を見上げると午後七時を過ぎていた。大型連休に入る前夜だからか、表通りは大勢の人びとで賑わっていた。その時、安寿はなにげなく航志朗が言った言葉に仰天した。
「安寿、夕食どうする? ここで食べていくか。それとも、何かテイク・アウェイして、家で食べるか」
「えっ? どういうことですか?」
安寿はものすごく不吉な予感がした。
「どういうことって、恵さんが北海道から帰って来るまで、俺のマンションに泊まるんだろ?」
「ええっ?」
「ええって、恵さん、明日、北海道に引っ越しする渡辺さんについて行くんだろ? 渡辺さんのお母さんに結婚の報告をしに行くからって。それに、今夜も用事があるから、渡辺さんの家に泊まるって言っていた。今日の昼にしばらく家を留守にするから俺に安寿をお願いしますって、恵さんから電話があったけど」
「えええっ?」
安寿はあわてて携帯を制服のポケットから取り出して見ると、叔母からの着信履歴が十一件も入っていた。
(そもそも、どうして恵ちゃんがこのひとの連絡先を知っているの? 私だって知らないのに)と安寿は思ったが、すぐに思い当たった。
(あの時に、恵ちゃんのスマホの着信履歴に入ったんだ……)
「安寿、車に置いてあるあの大きなリュックサックに、君の着替えとかお泊りセットが入っているんじゃないのか?」
「お泊り……」
安寿は言葉をなくしてその場に立ちつくした。その様子を見て航志朗はやれやれと首を振って言った。
「今、初めて聞いた……、とか?」
安寿は無言でうなずいた。
「そうか、わかった。じゃあ、まず着替えが必要だな。これから買いに行くか。ここは銀座だ。なんでも売ってる」
「あの……」
安寿は胸の内で叫んだ。
(私、あなたのマンションに泊まるって、ひとことも言ってないんですけど!)
安寿は航志朗にデパートの婦人服売り場に連れて来られた。しかも、ランジェリーコーナーである。国内外の有名ブランドが並んでいて、いかにも高級そうだ。量販店のインナーしか着たことがない安寿は、その場違いなほど艶やかな雰囲気のコーナーを目の前に呆然としてしまった。
(このなかから選べってこと?)
近づいてきた化粧の濃い売り場の店員に上から下まで目を通されてから、「何かお探しですか?」と冷ややかに問われて、居ても立っても居られずに安寿は航志朗に早口で言った。
「岸さん、他に行きましょう!」
航志朗はそのコーナーをちらっとうかがい見て残念な気持ちになったが、彼女には彼女の好みがあるのだろうと察して何も言わずに安寿に従った。
エレベーターに向かう途中で、安寿はいつか働いて収入を得られるようになったら、一着は買ってみたいと思っていたファッションブランドのコーナーの前を通った。春夏シーズンの新作が並んでいるらしく、その美しいテキスタイルデザインに一瞬目を奪われたが、安寿は目を伏せて通り過ぎた。
安寿の横を歩いていた航志朗はふと足を止めて振り返って言った。
「安寿、あの服、君に似合うんじゃないか」
それは、たった今、安寿が見入って通り過ぎた服だった。航志朗は安寿の手を握って、その服の前まで連れて行った。
ネイビーの生地に白い羽根のような模様がランダムに刺繍されていて、裾には繊細な小花柄のレースがあしらわれている。丁寧に仕立てられた美しいワンピースだ。安寿は航志朗に小声で言った。
「素敵ですけれど、ここのブランドのお洋服って、ものすごく高いんですよ」
「そうか。君が好きなデザイナーの服ってことだな、価格帯を知っているってことは」
まさにその通りなので安寿は黙ってしまった。さっそく航志朗は近づいてきた店員に試着を頼んだ。愛嬌のある笑顔が可愛らしい店員に案内されて、申しわけない気持ちがしつつも安寿は試着室に向かった。その店員は安寿のけがした足を気づかって、優しく試着を手伝ってくれた。
店員は離れて待っていた航志朗を呼んできた。航志朗はそのワンピースを着た安寿の姿を見てめろめろになってしまったが、なんとか冷静さを装ってクールに言った。
「うん。いいんじゃないか、安寿。よく似合ってる」
安寿は航志朗に褒めてもらって思わず頬を赤らめたが、ハンガーにかかっていた服のプライスタグをちらっと見て、目が飛び出そうになった。桁数が読み取れなくて、安寿はこっそり試着室の中で口に出して数えた。
「一、十、百、千、万、十万……」
あわてて安寿は制服に着替えた。
(こんなに高いワンピース、買ってもらえない!)と安寿は心底思い、絶対に断ることにした。
試着室の外では、航志朗が店員に渡された色違いのライムイエローのワンピースを手に持って、何やら考え込んでいた。さっそく航志朗は試着室から出て来た安寿を捕まえて、色違いのワンピースを安寿に当てて言った。
「うーん、こっちも似合うな。両方買うか!」
安寿はあわてふためき勢い余って、断るつもりが「私はネイビーの方がいいです!」と言ってしまった。
ふたりはエレベーターに乗って上階の寝具売り場に行った。安寿が先程の親切な店員にシンプルなコットンのパジャマやインナーがこのデパート内に置いていないかと尋ねたのだ。店員は即答した。
「寝具売り場にオーガニックコットンのコーナーがございます。きっとお気に召されるお品物があるかと思います」
そして、店員は微笑んで安寿に言った。
「素敵なお兄さまがいらっしゃって、うらやましいです」
その言葉を耳にして安寿は思った。
(そうだ。このひとのことをお兄さんと思えばいいんだ。はじめはお兄さんになるはずだったんだし。そうすれば、この胸のどきどきが収まるかもしれない……)
オーガニックコットンのコーナーで安寿は航志朗にパジャマとインナーのセットを買ってもらった。航志朗は「着替えは、もう一着あった方が安心だろ」と言って、ロングカーディガンがついた外出着としても使えるルームウェアのセットも追加した。航志朗はここで自分用のパジャマもついでに買っていた。航志朗は大きな手提げ袋を三つも抱えた。もちろん安寿を左腕でしっかり支えながら。
その後、ふたりはレストランフロアで蕎麦を食べた。安寿は疲れて眠くなってしまい、小さな子どものように半ばうとうとしながら蕎麦をすすった。航志朗はそんな無邪気な安寿を愉快そうに見つめた。
デパートを出たのは午後九時半を回っていた。安寿は疲れきってしまっていて、もう何も考えられなかった。航志朗の車の助手席に座ったとたんに安寿は全身の力が抜けて目を閉じてしまった。
(これから男のひとの家に泊まりに行くって、どういうことになるの……)と安寿は頭のかたすみでうっすら思っていた。
航志朗は眠ってしまった安寿に慎重にシートベルトを装着して、後部座席に置いてあったジャケットを取ってそっと掛けた。
航志朗は安寿を見つめて少し考えてから、安寿の頬に軽くキスした。それは心が躍るような素敵な感触だった。
車を発進させた航志朗は、安寿が自然に自分の隣で眠ってしまったことに、心から安寿に許されているような感じがした。航志朗は穏やかな温かい感覚に包まれた。そこに情欲はなかった。航志朗はそんな気持ちになっている自分自身に驚いた。
(こんなに可愛い女の子をお持ち帰りしているのにな)
航志朗は隣にいる安寿の寝顔を見て幸せそうに微笑んだ。そして、ふと気づいた。
(あれ? そういえば、彼女って俺の妻だった……)
「安寿、夕食どうする? ここで食べていくか。それとも、何かテイク・アウェイして、家で食べるか」
「えっ? どういうことですか?」
安寿はものすごく不吉な予感がした。
「どういうことって、恵さんが北海道から帰って来るまで、俺のマンションに泊まるんだろ?」
「ええっ?」
「ええって、恵さん、明日、北海道に引っ越しする渡辺さんについて行くんだろ? 渡辺さんのお母さんに結婚の報告をしに行くからって。それに、今夜も用事があるから、渡辺さんの家に泊まるって言っていた。今日の昼にしばらく家を留守にするから俺に安寿をお願いしますって、恵さんから電話があったけど」
「えええっ?」
安寿はあわてて携帯を制服のポケットから取り出して見ると、叔母からの着信履歴が十一件も入っていた。
(そもそも、どうして恵ちゃんがこのひとの連絡先を知っているの? 私だって知らないのに)と安寿は思ったが、すぐに思い当たった。
(あの時に、恵ちゃんのスマホの着信履歴に入ったんだ……)
「安寿、車に置いてあるあの大きなリュックサックに、君の着替えとかお泊りセットが入っているんじゃないのか?」
「お泊り……」
安寿は言葉をなくしてその場に立ちつくした。その様子を見て航志朗はやれやれと首を振って言った。
「今、初めて聞いた……、とか?」
安寿は無言でうなずいた。
「そうか、わかった。じゃあ、まず着替えが必要だな。これから買いに行くか。ここは銀座だ。なんでも売ってる」
「あの……」
安寿は胸の内で叫んだ。
(私、あなたのマンションに泊まるって、ひとことも言ってないんですけど!)
安寿は航志朗にデパートの婦人服売り場に連れて来られた。しかも、ランジェリーコーナーである。国内外の有名ブランドが並んでいて、いかにも高級そうだ。量販店のインナーしか着たことがない安寿は、その場違いなほど艶やかな雰囲気のコーナーを目の前に呆然としてしまった。
(このなかから選べってこと?)
近づいてきた化粧の濃い売り場の店員に上から下まで目を通されてから、「何かお探しですか?」と冷ややかに問われて、居ても立っても居られずに安寿は航志朗に早口で言った。
「岸さん、他に行きましょう!」
航志朗はそのコーナーをちらっとうかがい見て残念な気持ちになったが、彼女には彼女の好みがあるのだろうと察して何も言わずに安寿に従った。
エレベーターに向かう途中で、安寿はいつか働いて収入を得られるようになったら、一着は買ってみたいと思っていたファッションブランドのコーナーの前を通った。春夏シーズンの新作が並んでいるらしく、その美しいテキスタイルデザインに一瞬目を奪われたが、安寿は目を伏せて通り過ぎた。
安寿の横を歩いていた航志朗はふと足を止めて振り返って言った。
「安寿、あの服、君に似合うんじゃないか」
それは、たった今、安寿が見入って通り過ぎた服だった。航志朗は安寿の手を握って、その服の前まで連れて行った。
ネイビーの生地に白い羽根のような模様がランダムに刺繍されていて、裾には繊細な小花柄のレースがあしらわれている。丁寧に仕立てられた美しいワンピースだ。安寿は航志朗に小声で言った。
「素敵ですけれど、ここのブランドのお洋服って、ものすごく高いんですよ」
「そうか。君が好きなデザイナーの服ってことだな、価格帯を知っているってことは」
まさにその通りなので安寿は黙ってしまった。さっそく航志朗は近づいてきた店員に試着を頼んだ。愛嬌のある笑顔が可愛らしい店員に案内されて、申しわけない気持ちがしつつも安寿は試着室に向かった。その店員は安寿のけがした足を気づかって、優しく試着を手伝ってくれた。
店員は離れて待っていた航志朗を呼んできた。航志朗はそのワンピースを着た安寿の姿を見てめろめろになってしまったが、なんとか冷静さを装ってクールに言った。
「うん。いいんじゃないか、安寿。よく似合ってる」
安寿は航志朗に褒めてもらって思わず頬を赤らめたが、ハンガーにかかっていた服のプライスタグをちらっと見て、目が飛び出そうになった。桁数が読み取れなくて、安寿はこっそり試着室の中で口に出して数えた。
「一、十、百、千、万、十万……」
あわてて安寿は制服に着替えた。
(こんなに高いワンピース、買ってもらえない!)と安寿は心底思い、絶対に断ることにした。
試着室の外では、航志朗が店員に渡された色違いのライムイエローのワンピースを手に持って、何やら考え込んでいた。さっそく航志朗は試着室から出て来た安寿を捕まえて、色違いのワンピースを安寿に当てて言った。
「うーん、こっちも似合うな。両方買うか!」
安寿はあわてふためき勢い余って、断るつもりが「私はネイビーの方がいいです!」と言ってしまった。
ふたりはエレベーターに乗って上階の寝具売り場に行った。安寿が先程の親切な店員にシンプルなコットンのパジャマやインナーがこのデパート内に置いていないかと尋ねたのだ。店員は即答した。
「寝具売り場にオーガニックコットンのコーナーがございます。きっとお気に召されるお品物があるかと思います」
そして、店員は微笑んで安寿に言った。
「素敵なお兄さまがいらっしゃって、うらやましいです」
その言葉を耳にして安寿は思った。
(そうだ。このひとのことをお兄さんと思えばいいんだ。はじめはお兄さんになるはずだったんだし。そうすれば、この胸のどきどきが収まるかもしれない……)
オーガニックコットンのコーナーで安寿は航志朗にパジャマとインナーのセットを買ってもらった。航志朗は「着替えは、もう一着あった方が安心だろ」と言って、ロングカーディガンがついた外出着としても使えるルームウェアのセットも追加した。航志朗はここで自分用のパジャマもついでに買っていた。航志朗は大きな手提げ袋を三つも抱えた。もちろん安寿を左腕でしっかり支えながら。
その後、ふたりはレストランフロアで蕎麦を食べた。安寿は疲れて眠くなってしまい、小さな子どものように半ばうとうとしながら蕎麦をすすった。航志朗はそんな無邪気な安寿を愉快そうに見つめた。
デパートを出たのは午後九時半を回っていた。安寿は疲れきってしまっていて、もう何も考えられなかった。航志朗の車の助手席に座ったとたんに安寿は全身の力が抜けて目を閉じてしまった。
(これから男のひとの家に泊まりに行くって、どういうことになるの……)と安寿は頭のかたすみでうっすら思っていた。
航志朗は眠ってしまった安寿に慎重にシートベルトを装着して、後部座席に置いてあったジャケットを取ってそっと掛けた。
航志朗は安寿を見つめて少し考えてから、安寿の頬に軽くキスした。それは心が躍るような素敵な感触だった。
車を発進させた航志朗は、安寿が自然に自分の隣で眠ってしまったことに、心から安寿に許されているような感じがした。航志朗は穏やかな温かい感覚に包まれた。そこに情欲はなかった。航志朗はそんな気持ちになっている自分自身に驚いた。
(こんなに可愛い女の子をお持ち帰りしているのにな)
航志朗は隣にいる安寿の寝顔を見て幸せそうに微笑んだ。そして、ふと気づいた。
(あれ? そういえば、彼女って俺の妻だった……)