今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 千里は南側の窓際の椅子を航志朗に勧めた。安寿は棚の前にしゃがみ込んで熱心にいろいろなガラス瓶を手に取って見ている。抹茶を立てて航志朗に出した千里は、安寿の後ろ姿を見て目を細めながら言った。

 「可愛らしい奥さまですこと。雪乃さんがおっしゃった通りに、恵真さまによく似ていらっしゃる」

 「私には、彼女のどこが祖母に似ているのか、まったくわからないのですが」

 千里は目を閉じて静かに語り始めた。

 「姿形が似ているということではありません。その瞳の奥の哀しみの色が似ているのです。おそらく安寿さまは、恵真さまと同じような想いをされていらっしゃるのではないでしょうか」

 航志朗は内心で思った。

 (千里さんも「見えないものが見えるひと」なのか……)

 「私がこの生業を継ぐ家に生まれて、八十余年の歳月が経ちました。私は幼少の頃から、多種多様で繊細な色彩に触れて育ちました。おそらく私は長い歳月を経て、色の相を見ることができるようになったのかもしれません。そして、人の相も」

 千里はひと呼吸してから厳かに言った。

 「航志朗さま、僭越ながら申しあげます。安寿さまを心から大切に思われるのでしたら、重々お気をつけくださいませ。たったの一度でも、安寿さまを傷つけるようなことをなされたら、あなたは永遠に彼女を失います」

 思慮深く千里は目を伏せた。

 航志朗は背筋が冷たく張ってがく然とした。

 (また、警告か……)

 「航志朗さーん」

 安寿に呼ばれて航志朗は立ち上がり、すぐに安寿のそばに行った。

 「安寿、どうした?」

 「あの、私、この色を買い求めたいのですが、お財布を忘れてしまいました。すいませんが、立て替えていただけませんか?」

 安寿の手には「藍墨色」とラベルの張ってあるガラス瓶があった。瓶の中身が鈍く黒光りした。 

 (どこかで見たことがある色だな……)と航志朗はいぶかしげに思った。

 航志朗の後ろから千里が言った。

 「藍墨色は、電気石(トルマリン)から造られています。そういえば、安寿さまの瞳の色のようですね」

 その言葉に目をぱちくりさせて、安寿は航志朗を見上げた。

 航志朗は安寿の瞳をのぞき込んで思った。

 (確かに。彼女の瞳の虹彩は青みがかった墨色をしている)

 「航志朗さまの瞳は、本当に美しい琥珀色ですよね。恵真さま譲りの」

 その千里のひとことに、一瞬、航志朗は顔を曇らせた。

 安寿はそれを聞いて改めて思った。

 (そう。航志朗さんも岸先生と同じ琥珀色の瞳をしている。……初めて見た、とても美しい瞳の色)

 結局、安寿は航志朗に藍墨色だけでなく、六十色の岩絵具のセットまで買ってもらった。断固として断ろうとした安寿に、航志朗はバースデーカードのお礼だと言い聞かせた。

 九彩堂を後にした安寿と航志朗は、また不吉なエレベーターの揺れをやり過ごしながら一階まで降りて、スーパーマーケットの駐車場に戻った。車の鍵を内ポケットから取り出した航志朗は、午前中に安寿がホテルのラウンジで言っていたことを思い出した。

 いきなり航志朗は安寿の顔をまっすぐに見つめて言った。

 「安寿、今、俺が君にしてほしいことの一つ目を言うよ」

 「えっ?」

 安寿はそれを聞いて、急に胸の鼓動が早くなった。

 「今夜の夕食、俺は君の手料理が食べたい。もちろん俺も手伝うから」

 内心ほっとして安寿は答えた。

 「もちろん、いいですよ」

 安寿と航志朗は同じことを思っていた。

 (今回の帰国で一緒に過ごす最後の夜だから……)

 ふたりはそのまま目の前のスーパーマーケットに入った。ダークグリーンの買い物かごをショッピングカートにのせて、並んで買い物をした。航志朗は隣の安寿を盗み見て、心の底から幸せな気分に浸った。

 (これって、まさに「夫婦」って感じじゃないか!)

 一方、安寿は夕食のメニューがなかなか思い浮かばずに(ええと、何にしよう。ああ、どうしよう)とあたふたしていた。

 きょろきょろとしばらく陳列棚を見回して(それに、このスーパーもなんだかものすごく値段が高いような気がするんだけど……)と安寿はため息まじりに思った。

 なんとか買い物を済ませて、ふたりは車に乗り込んだ。航志朗は大きくふくらんだ紙袋を後部座席に置いた。航志朗は安寿が選んだ食材をひと通り見て思った。

 (薄力粉と牛乳とバターにチーズ。ホタテとじゃがいもと玉ねぎって、グラタンか? それと卵に、おでんのセットと大根。ずいぶんと不思議な取り合わせだな)

 マンションに帰る道すがら、助手席に座った安寿は待ちきれずに、さっそく航志朗に買ってもらった岩絵具セットの箱を膝にのせて開けた。安寿は小さなガラス瓶を一つひとつ大切そうに取り出した。小瓶を目の前に持って陽の光にかざし、それはそれは楽しそうに安寿は眺めた。その姿を横目で見た航志朗は可笑しくて仕方がなかった。

 (俺の妻はジュエリーを身に飾って喜ぶんじゃなくて、貴石を粉にした絵具を見てあんなに喜んでいる……)

 航志朗は子どもの頃に慕っていた祖母を久しぶりに思い出して、その面影に向かって語りかけた。

 (恵真おばあさま、本当に面白いひとでしょう? 僕の妻になった安寿は)
 
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