今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ふたりは安寿の高校へと向かう車の中にいる。航志朗は車を運転しながら、恵の北海道土産のホワイトチョコレートでコーティングされたクッキーを安寿に食べさせてもらっていた。

 「これ、おいしいな。安寿、もう一枚」と言って、航志朗は当然のことのように安寿に向かって口を開けて催促した。航志朗の口に半分に割ったクッキーを運びながら安寿は思った。

 (もう、なんなの! 彼は、いつも私の前に突然現れるんだから……)

 航志朗が横目で安寿を見て、弾んだ声で言った。

 「安寿、おでんをつくっておいてくれて助かったよ。ありがとう。すごくおいしかった。本当は、君と一緒に食べたかったな」

 安寿はその甘い言葉を軽くあしらった。

 「そうですか。それはよかったです」

 航志朗は後部座席を指さしながら言った。

 「ああ、そうだ。君の今日のランチ用にベーカリーでサンドイッチを買っておいたよ」

 安寿が振り返ると見覚えのある紙袋が後部座席に置いてあった。自作の弁当がリュックサックに入っているが、安寿は航志朗の厚意を断れずに紙袋を受け取って礼を言った。

 やがて、高校の裏門近くにある神社の脇に車が停まった。心から安寿は安堵した。神社は高校の最寄り駅から高校の正門に向かうルートから外れているので、登校してくる生徒はまず通らない。

 時刻は午前八時前だ。始業時間までには、まだずいぶんと余裕がある。それでも安寿はすぐに車から降りようと思い、頭を下げて航志朗に礼を言ってから、シートベルトを外した。航志朗もエンジンを停止してからシートベルトを外した。

 「お気をつけて、いってらしてください」と言って、安寿がうつむいて車を降りようとした瞬間、いきなり航志朗が手を伸ばして安寿の腕をつかんだ。

 安寿が振り返って呆気に取られていると、航志朗は両腕で安寿の身体を力強く引き寄せて、あっというまに安寿の唇に自分の唇を重ねた。

 突然の出来事に安寿は仰天して、目を見開いて航志朗の琥珀色の瞳を見た。今までで一番近い距離だ。それは濡れたように光っていた。安寿は頭のなかが真っ白になった。

 航志朗は安寿の唇を離さない。軽く重ねていただけだった航志朗の唇が動いて、柔らかく安寿の唇を吸いはじめた。突然、身体の奥からわいてきた陶酔が安寿を襲った。腰の奥底がぞくっと震えて、身体じゅうがとろけてしまいそうだ。

 思わず安寿は航志朗の両肩を両手で強く握った。航志朗はさらに力を込めて安寿の身体を抱き寄せて、安寿の唇に自分の唇を押しつけた。安寿は息が苦しくなって無理やり顔を離して空気を吸い込んだ。安寿の息遣いは荒く、その肩が激しく上下に揺れた。

 「こういう時は鼻で息をするんだ、安寿」

 安寿の耳元に小声で甘くささやいて、航志朗はまた強引に安寿に唇を重ねた。

 「ちょ、ちょっと!」

 安寿は航志朗の唇に訴えた。

 「ん?」

 航志朗は至近距離で目を細めながら安寿の瞳をのぞき込んだ。

 安寿は少しずつ理性が戻ってきて、航志朗の大きな身体ごしに車の窓の外をうかがった。とりあえず人通りはない。

 安寿は航志朗に大声で訴えた。

 「誰かに見られたらどうするの!」

 やっと航志朗は安寿の唇を離して答えた。

 「まったく問題ないだろ? 俺たちは夫婦なんだから、『いってきます』のキスだ」

 航志朗は安寿を力強く抱きしめた。安寿は身体をわななかせながら肩で呼吸をしている。激しく打つ胸の鼓動が口から飛び出してきそうだ。身をよじった安寿は航志朗の腕の中からなんとか逃れて、航志朗をにらみながら低い声で言った。

 「……いってらっしゃい、航志朗さん」

 「うん。行ってくる、安寿。何かあったらすぐに連絡しろよ」

 何も安寿は答えられなかった。身体の震えが止まらない。

 安寿はマウンテンリュックサックの中から赤と白のギンガムチェックのリネンハンカチに包んだ弁当を取り出して、また自分を抱きしめようと手を伸ばしてくる航志朗の目の前にいきなり突き出した。

 「どうぞ!」 

 「ん?」

 「自分用につくったレンチンお弁当ですが、よかったら召しあがってください!」と安寿は声を荒げて言った。

 「あ、ありがとう……」

 安寿の必死の形相に気圧された航志朗はそのまま受け取った。

 (……「レンチンお弁当」って、なんだ?)

 航志朗が初めて聞いた日本語の単語だった。

 そして、安寿は急いで車を降りて、振り返らずに高校に向かって行った。

 離れて行く安寿の後ろ姿を見ながら弁当の包みを膝に置いて航志朗は思った。

 (彼女を傷つけてはいないよな。怒らせたみたいだけど。それにしても初めてだったのか、……あんなに可愛い反応をして)

 思わず航志朗は口を手で覆って顔を赤らめた。

 校門に向かいながら安寿も両手で口を覆っていた。まだ身体が震えて仕方がない。とにかく前へと足を運んだ。けがをしている左足のことは、すっかり頭のなかから吹っ飛んでいる。顔を真っ赤にして安寿は思った。

 (どうしよう、私、彼とキスしちゃった! 生まれて初めての……)

 いったん自宅マンションに戻った航志朗は、さっそくダイニングテーブルの上に安寿から手渡された包みを置いて、その結び目をほどいた。中からは使い込まれた二段のステンレス製の弁当箱と朱色の漆塗りの箸箱が出てきた。弁当箱のふたを開けてみると、ごくシンプルにおかずが並んでいた。航志朗は箸箱を開けて中から檜の箸を取り出し、黙々と食べ始めた。

 (おいしいな。「レンチンお弁当」って、冷凍食品を使ったってことか。冷凍食品だろうがなんだろうが、安寿の手作りだ。おいしいに決まってる)

 そして、航志朗は気づいた。

 (この弁当箱がないと、明日から困るんじゃないのか?)

 そこで、航志朗は全部弁当を平らげると、きれいに弁当箱と箸と箸箱を洗ってよく拭いた。ギンガムチェックのハンカチに包もうとした時に思いついて、黒革の手帳のメモ用紙をちぎって、「ごちそうさま。おいしかった。安寿、ありがとう」とメッセージを書いた。航志朗はその空欄に安寿がつくった弁当の絵をたわむれに描いた。それから、先日のデパートの紙袋に入れて、航志朗は宅急便で成田空港から安寿の団地の自宅宛てに送った。

 次の日の夕方、時間指定で送られてきた宅急便の包みを安寿は受け取った。送り状の「岸航志朗」という文字に、安寿は胸がどきっとした。思わず昨日の航志朗の唇の生なましい感触を思い出してしまって、安寿は真っ赤になった。恐る恐る中を開けてみると、昨日、航志朗に渡した弁当の包みが入っていた。包みをほどくと、きれいに洗われた弁当箱が出てきた。そして、メモ用紙が安寿の目に入った。安寿はそれを手に取って思わず微笑んだ。航志朗の美しい文字で書かれたさりげないメッセージが素直に嬉しかった。ふとそれに気づいて、安寿は大きく目を見開いた。

 (このお弁当の絵、なんて洗練されているの! 雑誌にのった料理のレシピに添えられたおしゃれなイラストみたい。もしかして、航志朗さんも絵を描くの?)

 ずっと安寿はそのメモ用紙を見つめていた。



























 



 



 
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