今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 岸家の屋敷で岸と同居することになっても、モデルの仕事はこれまでと同じように土曜日の午前中と午後の数時間だけだった。

 岸の起床はいつも遅いので、安寿は広い食事室で朝食を一人でとっている。

 咲は毎朝午前八時に岸家にやって来ているのだが、出勤時間を早めて、安寿のために朝食や弁当を用意すると申し出た。だが、安寿に懇願されて、今まで通りにすることにした。

 咲に食材だけは用意してもらってはいるが、毎朝、安寿は岸家の台所で自分の朝食と弁当を用意している。夕食は岸と二人でとっている。沈黙の時間のほうが長いが、安寿は岸と共に食事をする時間に安堵感を覚えていた。

 夕食が済むと、安寿は咲の仕事である後片づけを手伝った。始めは断固として遠慮した咲だったが、安寿と一緒に台所でおしゃべりしながら過ごす時間を、咲は心から嬉しく思うようになっていた。日を追うごとに、ますます咲は安寿のことが愛おしくなってきている。まるで可愛い娘ができたかのように。

 華鶴と一緒に食事をするのは週末の昼食だけだった。航志朗が言っていた通りに、華鶴はこの屋敷に自室はあるが、実際は住んでいないようだった。それについての説明は、華鶴自身はおろか誰にもされなかったし、安寿も尋ねたりはしなかった。

 安寿と同居するようになった岸の絵に変化があった。今まで安寿をモデルにした絵は鉛筆デッサンだけだったが、本格的に油絵に取りかかるようになった。

 その土曜日の朝もどんよりと曇っていて、時折ぽつぽつと雨音が聞こえてきた。安寿は台所に行き、自分の朝食の準備をしようとエプロンを身につけた。咲が安寿のために用意してくれたピンク色の小花柄のエプロンだ。

 安寿がエプロンの腰ひもを結んでいると、そこへ珍しく岸がやって来た。

 「安寿さん、おはようございます」

 「岸先生、おはようございます」

 法律上、岸は安寿の義理の父になったのだが、安寿は以前と変わらずに「岸先生」と呼んでいる。もちろん華鶴に対しても「華鶴さん」のままだ。

 「あの、私、これからフレンチトーストをつくろうかと思っているのですが、岸先生もご一緒にいかがですか?」

 「それはおいしそうですね。私の分もお願いできますか、安寿さん」

 「はい。もちろんです。少々お待ちください」

 岸が二人分の紅茶を安寿の目の前で淹れた。岸の手際はとても優雅で、思わず安寿は見とれてしまった。

 その日の朝食は初めて岸とふたりでとった。

 「安寿さん、とてもおいしいです。咲さんから聞きましたが、安寿さんはひと通りのお料理ができるそうですね。たいしたものですね」

 「いいえ、とんでもないです」

 岸に褒められて、安寿は赤くなって下を向いた。

 穏やかに微笑みながら岸が言った。

 「安寿さんは、素敵な奥さんになりますね」

 安寿はどう答えたらよいのかわからなくて、困惑した表情を浮かべた。岸が自分の不用意な発言に気づいて、あわてて安寿に謝った。

 「安寿さん、申しわけありません。大変失礼なことを言いました」

 なんとか安寿は微笑みながら首を振った。そして、すぐに話題を変えて岸に尋ねた。

 「岸先生、今日は何時にアトリエにうかがったらよろしいでしょうか?」

 岸は安寿の優しい心遣いを感じながら答えた。

 「そうですね、九時半くらいはいかがでしょうか」

 「わかりました」と言って、安寿はうなずいた。

 紅茶を飲み終わった岸が立ち上がって朝食の後片づけをしようとしたので、安寿は急いでエプロンを身につけて、岸から食器を受け取って洗った。

 安寿は内心驚いた。

 (岸先生も家事をされるんだ。航志朗さんみたいに)

 先週と同じように、安寿は自室でレモンイエローのジョーゼットのワンピースに着替えた。そして、約束の五分前にアトリエに向かった。すでに岸はアトリエにいて、イーゼルに置かれたキャンバスに向かっていた。安寿は岸に会釈をしてから、真紅の肘掛け椅子に座った。
 
 窓の外は小雨が降っている。アトリエの中には、キャンバスに擦られる画筆の筆先の音しかしない。安寿は岸の真剣にキャンバスに向かう琥珀色の瞳を見つめていた。

 「自分を画家にさらけだすな。自分を守るために何か他のことを考えろ」と航志朗が言っていた言葉を安寿は思い出す。

 (他のことって? 今、私は航志朗さんのことを考えている……)

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