今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿の部屋に戻ると、航志朗は紅茶をティーカップに注いでベッドに座っている安寿に手渡した。安寿は礼を言ってひと口飲んだ。航志朗も安寿の隣に座って紅茶を飲んでから、唐突に真剣な顔をして言った。

 「安寿、君はあの森の絵を売る気はあるか?」

 「あの森の絵……」

 「そうだ。あの絵は必ず売れる。あの絵を心から欲しいと思う人が、世界中のどこかに必ずいる」

 自信にあふれたまなざしで航志朗は言いきった。だが、安寿はあの森の絵が売れるとはとうてい思えなかった。

 「どうして、そう言えるのですか?」

 目を細めた航志朗は自信ありげに口角を上げて言った。

 「直感だ。理由なんてない」

 航志朗の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめて静かに安寿は言った。

 「……わかりました」

 安寿はクローゼットを開けてあの森の絵を取り出して来て、躊躇なく航志朗に手渡した。航志朗はその安寿の思いきりのよさに正直驚いた。

 (高校に入学した初めての夏に、一生懸命描いた大事な絵なんじゃないのか)

 念のため航志朗は安寿に確認した。

 「本当に持って行ってしまってもいいのか、安寿?」

 安寿は力強くうなずいた。

 「はい、どうぞ。私、またあの森の絵を描きたいんです。何度でも描きたいんです。今すぐアトリエにイーゼルを立てて描きます」

 「どうして、そうしたいと思うんだ?」

 安寿のその強い意志の力の源がどこにあるのか不思議に思って航志朗が尋ねた。

 安寿は航志朗のまねをして泰然とした表情で答えた。

 「直感です。理由なんてありません」

 思わず航志朗は表情をゆるめてつぶいた。

 「安寿、君は本当に面白いひとだな……」

 すかさず安寿が言い返した。

 「航志朗さんだって、面白いひとですよね」

 「そうかな。でも、安寿。今日は止めておけよ。君は病みあがりなんだからな」

 「あっ、……忘れていました」

 安寿は目をまん丸くさせて頬を赤らめた。

 その安寿のあるがままの可愛らしさに、航志朗は胸が高鳴った。

 「まったく、君ってひとは」

 その時、胸の内で安寿は思った。

 (そもそも私が病みあがりだっていうことを忘れさせたのは、航志朗さんなのに。彼が何度も私を抱きしめてくるのが悪い。キスまでしてきて。シンガポールに彼女がいるのに!)

 だんだん湧いて出てきた怒りが頭のなかを占領してきて、思わず安寿は本当に思ったことを航志朗に叫んだ。

 「もうっ、全部、航志朗さんのせいですからね!」

 そうは言ったものの、自分のあまりの幼稚さに安寿はいたたまれなくなって下を向いた。航志朗はそんな安寿を面白そうに眺めた。そして、顔をゆるませた航志朗は、安寿をそっと抱き寄せた。

 「そうだな。全部、俺のせいだな」と航志朗は安寿の背中をさすりながらその耳元に甘くささやいた。そして、そのままベッドの上の毛布をを持ち上げて安寿をその中に横たえてから、自分も毛布にもぐり込んだ。あっという間に、安寿は毛布の中で航志朗に抱きしめられていた。

 「あ、あの、ちょっと!」

 安寿は真っ赤になって抗議した。すでに安寿の理性の方だけは完全に回復していた。

 毛布の中で航志朗は安寿の髪をなでながら大人の余裕を醸し出して言った。

 「昨日の夜、高熱が出たばかりなんだ。眠ったほうがいい。さあ、安寿、目を閉じて」

 だが、内心で航志朗はきつく胸が締めつけられていた。

 (彼女と一緒にいられる時間は、あと一時間半もないんだな)

 安寿は航志朗の腕の中で思った。

 (こんな状態で眠れるわけがないじゃない。それに、もうすぐ彼はまた遠くに行ってしまうのに)

 それでも安寿は強いて目を閉じた。安寿の心のなかには、怒りと羞恥心と寂寥感が渦巻いていた。それらを見ないように安寿はもっと強く力を込めて目を閉じた。だが、すぐに安寿は、目の前の航志朗が寝息をたてていることに気がついた。

 (あれ? 航志朗さんのほうが寝ちゃった)

 安寿は航志朗の穏やかな寝顔を見つめながら、もう彼の寝顔を見ることはないと思って航志朗のマンションのベッドから去った時のことを思い出した。

 (今、私は彼の子どもの頃の部屋にいて、彼が子どもの頃に使っていたベッドの中で、彼と一緒にいる。そして、私の隣で彼はぐっすりと眠っている。梅雨の晴れ間の突然の贈り物のような明るい午後の陽ざしの中で。きっと、昨日の夜、航志朗さんは眠っていなかったんだ。熱を出した私をずっと見守っていてくれたから。……ありがとう、航志朗さん)

 突然、湧いて出て来た航志朗への感謝の想いが、安寿の心のなかをきれいに洗い流した。

 そして、まっさらな心で安寿は思った。

 (私、航志朗さんが好き)

 そう思ったら、安寿は涙があふれてきた。 

 (彼はいずれ別れなければならないひと。それでもいい。今、私は彼を愛してる)

 その時、毛布の奥で鈍い振動音が鳴り響いた。それに気づいた航志朗が手探りでチノパンのポケットからスマートフォンを取り出して、バイブレーションをオフにした。午後四時だ。

 涙で頬を濡らした安寿は、あわてて顔を枕に押しつけて寝たふりをした。

 「ん? 出かける時間か。ふたりで一緒に眠ってしまったのか」と航志朗は言って、うつぶせになっている安寿を見つめた。そして、航志朗は安寿の後ろ髪にそっとキスして、小声でささやいた。

 「いってくる、安寿」 

 航志朗は毛布を丁寧に掛け直してから、安寿の森の絵を抱えて部屋を静かに出て行った。一人残された安寿は声を出さずに泣いた。

 航志朗は客間に行って、手早く出発する準備を整えた。安寿の絵は客間に置いてあった新品のシーツにくるんでアタッシェケースの中に入れた。ネイビーのジャケットを羽織り、スーツケースを転がしてアタッシェケースを手に持ち、屋敷の玄関を出て航志朗は車に向かった。伊藤と咲が見送りに出て来た。ふたりに会釈してから、航志朗は車のエンジンをかけた。

 窓の外から車のエンジン音がした。ベッドにうつぶせになっていた安寿はあわてて起き上がって、走ってバルコニーに向かった。航志朗の車が動き出したのが見えた。安寿はバルコニーの手すりを固く握りしめて車を見送った。

 ハンドルを握った航志朗は深いため息をついて二階のバルコニーを見上げた。そこには安寿が立っていた。長いワンピースの裾をひるがえした安寿は航志朗の視線に気づくと、必死に微笑んで手を大きく振った。その姿を見た航志朗はいきなりエンジンを止めて、車から飛び出した。そして、屋敷に駆け込んで行った。不可解な面持ちで顔を見合わせた伊藤と咲は、バルコニーにたたずむ安寿を見つけた。咲は伊藤ににっこりと微笑みかけたが、伊藤は静かに目を閉じた。

 息を切らせて航志朗は階段を駆け上がった。長い廊下を全速力で走って安寿の部屋に向かう。航志朗は乱暴に部屋のドアを開けて、窓際に立っている安寿に向かって突進した。真っ赤に目を腫らした安寿は呆然としながら言った。

 「航志朗さん?」

 「安寿、忘れものだ!」と怒鳴るように言って、航志朗はいきなり安寿を力いっぱい抱きしめてから、かがんで安寿に口づけた。だがそれは一瞬で、すぐに航志朗は唇を離して安寿の耳元に甘くささやいた。

 「この続きは、また今度。いってくる、安寿」

 「……いってらっしゃい、航志朗さん」

 あわただしく航志朗は安寿の部屋から出て行った。そして、安寿の耳から航志朗の車のエンジン音が遠ざかっていった。

 真っ赤な目で顔を赤らめた安寿はカーペットの上にへたり込んで両手を頬に当てた。

 うつむいて安寿はつぶやいた。

 「また、熱が出そう……」

 やがて、微笑みを浮かべた安寿は窓の外を見た。安寿の左手の薬指の結婚指輪が午後の陽ざしを反射してきらきらと輝いた。








 



 

 
 

 


 

 

 





 
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