今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
マリコはカップケーキの横に置いてあったペーパーナプキンを取って、厚く塗り重ねたマスカラに気をつけながら涙をぬぐい、口角を上げて笑顔をつくってから、航志朗に尋ねた。
「ねえ、航志朗くん。あなたは初恋のひとのことを覚えている?」
「は?」
一瞬、今まで通り過ぎて行った女たちの影が、航志朗の記憶のかたすみをかすったが、今の航志朗には安寿の姿しか思い浮かばなかった。
「航志朗くん、私の初恋の話を聞いてくれない? まあ、若いあなたには、グランマのタイクツな話だと思うけれど」
「私でよかったら、もちろん聞きましょう」
「あなたには信じられないかもしれないけれど、私にも十八の頃があったのよ」
控えめな微笑を浮かべて航志朗はうなずいた。
(十八歳。安寿と同じ歳だ)
「十八の私は恋をしていたの。相手は年上の大学生よ。美しいブルーの瞳を持った私の初恋のひとで、……初めての男性よ。ねえ、わかるでしょ」
また航志朗はマリコの目を見てうなずいた。
「私たちは結婚の約束をしたの。彼が大学を卒業したら結婚しようって。もちろん、それは口約束だったけれどね」
昨日のことを思い出した航志朗は少し顔を赤らめた。
「でも、その翌年、彼は大学を卒業したらアメリカ本土に行ってしまったの。大成功して帰って来るからここで待っていてほしいって言い残して。私は待ったわ。十年待った。でも、彼は帰って来なかった。ついに音信も途絶えた」
明るく微笑んだ秘書がコーヒーを運んできた。マリコと航志朗は湯気の立つすっきりとした味わいのコーヒーを飲んだ。
ふうとため息をついてから、マリコは話を続けた。
「その後、父に強いられてお見合いをさせられたの。同じ日本人をルーツに持つファミリーの男性と。彼は私よりひと回り年上で、すでに大きなコーヒー農園をいくつも経営していて、とても成功した人だった。そう、アレックスよ。彼は私を本当に心から愛してくれた。幸せな結婚生活だったわ。四人の子どもに恵まれたし、孫だってこの夏に六人目が生まれるのよ!」
マリコはそう一気に早口で話してから、急に目を伏せた。
「でも、私は初恋のひとが忘れられなかった。夫に愛されながらも、彼のことを想っていたわ。ずっとね。ひどい女でしょ」
マリコはまた涙を拭いた。ペーパーナプキンに黒いしみがにじんだ。
「私は待っているの。ずっと彼を。でも、わかっているわ。それは今、この世界のどこかにいるかもしれない彼じゃないのよ。十八の時に、確かに私の目の前にいて、私に触れていた彼の幻をね」
その時、航志朗は何かを思い出そうとしていた。航志朗は直感でこのマリコの身の上話が、子どもの頃からずっと抱え込んでいる何らかの未解決問題を解くための特別な暗示のように聞こえた。
しばらくペーパーナプキンを握りしめて沈黙していたマリコがそっと口を開いた。
「航志朗くん。あなた、子どもの頃からずっと華鶴のことを憎んでいるんじゃないの」
一瞬、航志朗は目を大きく見開いた。いきなりそこに母の名前が出てきたことに。
「華鶴はね、ピュアなひとなのよ。私があなたに言えるのはそれだけよ」
(あの女が「ピュア」だと?)
航志朗は両方のこぶしを握りしめた。
安寿の絵に目を落としてマリコが言った。まるでひとりごとを言うように。
「この若いモデルの女性は、誰かを待っているわね。きっと、そのひとは彼女の恋人ね。彼女が心から愛するひとを待っている。十八の私と同じ瞳をして」
航志朗はがく然とした。まったく思い至らなかった事実をマリコから知らされた気がした。
(安寿が、……俺を待っている!)
「この絵は私の個人名義で購入させていただいたわ。私のベッドルームに置くの」とマリコは寂しそうに微笑んだ。そして、マリコはふと思いついたように言った。
「航志朗くん、私たちの美術館に案内するわ」
航志朗とマリコは邸宅を出て、地中海スタイルの白壁の美術館に入った。エントランスのドアは一面コバルトブルーに塗られていた。内装も真っ白で、高窓にはアンティークの赤いバラのステンドグラスがはめ込まれていた。
そこは静謐な教会のようだった。岸の風景画はその一角に展示されていた。航志朗は父の風景画を改めて見つめた。航志朗の記憶のなかの父は、いつもアトリエでキャンバスに向かう後ろ姿しかない。どうしても航志朗は昔の父の表情が思い出せなかった。
航志朗はずっと父との間に遠い距離を感じて成長した。航志朗は父に抱かれた記憶がない。父の温もりを航志朗は知らない。それは母に対しても同様だった。
(俺は、両親に抱きしめられなかった子どもだったんだな)と、その時、航志朗は思い知った。目の前の父の風景画は、航志朗の目には父の過去の時間の灰塵のように感じられた。
(だが、これを見て人は郷愁というものを感じるのか)
しばらく航志朗の後ろ姿を見守ってから、マリコが言った。
「航志朗くん、この後のご予定は? よかったら、今夜カハラで地元の政治家主催のパーティーがあるんだけど、ご一緒にいかが? オアフの名士たちを紹介するわよ」
「マリコさん。申しわけないのですが、私は今夜ロサンゼルス経由でミラノに発ちます」
「まあ、今度はイタリアなの! お忙しいのね。せっかくオアフに来たのに、ビーチにも行かないで飛び立ってしまうのね」
「はい。でもまたうかがわせていただきます。今度は妻と一緒に」
「ええ、ぜひ。楽しみにしているわ!」
突然、マリコは航志朗をハグした。航志朗もマリコに軽く腕を回した。そして、マリコは背伸びして、航志朗の右頬にキスした。少しはにかんで頬を赤らめながら。
率直に航志朗は思った。
(マリコさんは、永遠に十八歳の女の子なんだな)
それから、急に航志朗はあせった。
(ハワイで六十代の女の子にキスされたなんて、安寿には絶対に話せないって!)
航志朗はマリコからナカジマ農園のコナコーヒーを土産にもらった。航志朗はホテルの部屋でスーツケースにコーヒー豆の入った大きな袋を押し込みながら思った。
(そういえば、安寿はコーヒーが飲めないって言ってたな。ものすごく苦いからって。本当に可愛いよな、俺の妻は)
航志朗は下を向いてひとりで笑った。
そして、航志朗は颯爽と両肩で風を切って、闇夜の中で妙に明るく光っている空港に向かった。
「ねえ、航志朗くん。あなたは初恋のひとのことを覚えている?」
「は?」
一瞬、今まで通り過ぎて行った女たちの影が、航志朗の記憶のかたすみをかすったが、今の航志朗には安寿の姿しか思い浮かばなかった。
「航志朗くん、私の初恋の話を聞いてくれない? まあ、若いあなたには、グランマのタイクツな話だと思うけれど」
「私でよかったら、もちろん聞きましょう」
「あなたには信じられないかもしれないけれど、私にも十八の頃があったのよ」
控えめな微笑を浮かべて航志朗はうなずいた。
(十八歳。安寿と同じ歳だ)
「十八の私は恋をしていたの。相手は年上の大学生よ。美しいブルーの瞳を持った私の初恋のひとで、……初めての男性よ。ねえ、わかるでしょ」
また航志朗はマリコの目を見てうなずいた。
「私たちは結婚の約束をしたの。彼が大学を卒業したら結婚しようって。もちろん、それは口約束だったけれどね」
昨日のことを思い出した航志朗は少し顔を赤らめた。
「でも、その翌年、彼は大学を卒業したらアメリカ本土に行ってしまったの。大成功して帰って来るからここで待っていてほしいって言い残して。私は待ったわ。十年待った。でも、彼は帰って来なかった。ついに音信も途絶えた」
明るく微笑んだ秘書がコーヒーを運んできた。マリコと航志朗は湯気の立つすっきりとした味わいのコーヒーを飲んだ。
ふうとため息をついてから、マリコは話を続けた。
「その後、父に強いられてお見合いをさせられたの。同じ日本人をルーツに持つファミリーの男性と。彼は私よりひと回り年上で、すでに大きなコーヒー農園をいくつも経営していて、とても成功した人だった。そう、アレックスよ。彼は私を本当に心から愛してくれた。幸せな結婚生活だったわ。四人の子どもに恵まれたし、孫だってこの夏に六人目が生まれるのよ!」
マリコはそう一気に早口で話してから、急に目を伏せた。
「でも、私は初恋のひとが忘れられなかった。夫に愛されながらも、彼のことを想っていたわ。ずっとね。ひどい女でしょ」
マリコはまた涙を拭いた。ペーパーナプキンに黒いしみがにじんだ。
「私は待っているの。ずっと彼を。でも、わかっているわ。それは今、この世界のどこかにいるかもしれない彼じゃないのよ。十八の時に、確かに私の目の前にいて、私に触れていた彼の幻をね」
その時、航志朗は何かを思い出そうとしていた。航志朗は直感でこのマリコの身の上話が、子どもの頃からずっと抱え込んでいる何らかの未解決問題を解くための特別な暗示のように聞こえた。
しばらくペーパーナプキンを握りしめて沈黙していたマリコがそっと口を開いた。
「航志朗くん。あなた、子どもの頃からずっと華鶴のことを憎んでいるんじゃないの」
一瞬、航志朗は目を大きく見開いた。いきなりそこに母の名前が出てきたことに。
「華鶴はね、ピュアなひとなのよ。私があなたに言えるのはそれだけよ」
(あの女が「ピュア」だと?)
航志朗は両方のこぶしを握りしめた。
安寿の絵に目を落としてマリコが言った。まるでひとりごとを言うように。
「この若いモデルの女性は、誰かを待っているわね。きっと、そのひとは彼女の恋人ね。彼女が心から愛するひとを待っている。十八の私と同じ瞳をして」
航志朗はがく然とした。まったく思い至らなかった事実をマリコから知らされた気がした。
(安寿が、……俺を待っている!)
「この絵は私の個人名義で購入させていただいたわ。私のベッドルームに置くの」とマリコは寂しそうに微笑んだ。そして、マリコはふと思いついたように言った。
「航志朗くん、私たちの美術館に案内するわ」
航志朗とマリコは邸宅を出て、地中海スタイルの白壁の美術館に入った。エントランスのドアは一面コバルトブルーに塗られていた。内装も真っ白で、高窓にはアンティークの赤いバラのステンドグラスがはめ込まれていた。
そこは静謐な教会のようだった。岸の風景画はその一角に展示されていた。航志朗は父の風景画を改めて見つめた。航志朗の記憶のなかの父は、いつもアトリエでキャンバスに向かう後ろ姿しかない。どうしても航志朗は昔の父の表情が思い出せなかった。
航志朗はずっと父との間に遠い距離を感じて成長した。航志朗は父に抱かれた記憶がない。父の温もりを航志朗は知らない。それは母に対しても同様だった。
(俺は、両親に抱きしめられなかった子どもだったんだな)と、その時、航志朗は思い知った。目の前の父の風景画は、航志朗の目には父の過去の時間の灰塵のように感じられた。
(だが、これを見て人は郷愁というものを感じるのか)
しばらく航志朗の後ろ姿を見守ってから、マリコが言った。
「航志朗くん、この後のご予定は? よかったら、今夜カハラで地元の政治家主催のパーティーがあるんだけど、ご一緒にいかが? オアフの名士たちを紹介するわよ」
「マリコさん。申しわけないのですが、私は今夜ロサンゼルス経由でミラノに発ちます」
「まあ、今度はイタリアなの! お忙しいのね。せっかくオアフに来たのに、ビーチにも行かないで飛び立ってしまうのね」
「はい。でもまたうかがわせていただきます。今度は妻と一緒に」
「ええ、ぜひ。楽しみにしているわ!」
突然、マリコは航志朗をハグした。航志朗もマリコに軽く腕を回した。そして、マリコは背伸びして、航志朗の右頬にキスした。少しはにかんで頬を赤らめながら。
率直に航志朗は思った。
(マリコさんは、永遠に十八歳の女の子なんだな)
それから、急に航志朗はあせった。
(ハワイで六十代の女の子にキスされたなんて、安寿には絶対に話せないって!)
航志朗はマリコからナカジマ農園のコナコーヒーを土産にもらった。航志朗はホテルの部屋でスーツケースにコーヒー豆の入った大きな袋を押し込みながら思った。
(そういえば、安寿はコーヒーが飲めないって言ってたな。ものすごく苦いからって。本当に可愛いよな、俺の妻は)
航志朗は下を向いてひとりで笑った。
そして、航志朗は颯爽と両肩で風を切って、闇夜の中で妙に明るく光っている空港に向かった。