哀愁の彼方に
平成二年の春は、遅く待ち遠しかった。
南市松は、当年六十路を四つ越えた初老になっていた。とはいうものの毎日が、酒に浸りきりで、
市松のそばに寄るといつも、酒の匂いがプンと漂ってきた。それに加えて市松の手は、大酒呑み
が陥る通常の症状を呈し、小刻みに震えていた。頭髪は、みごとなくらいに白く、ロマン
スグレイと呼ぶにふさわしいものであった。しかも、櫛など入れて髪の毛をとかせたこと
もない。その見事な白髪は、いつも乱れていた。生まれつきの不精者の性格に加えて、頭
髪には全く無頓着であった。おまけに無精ひげが、伸びたままで、目尻は垂れ下がってい
た。甚だ風采の上がらない男に見えた。しかし性格は、温厚で、正直で、正義感の強い頑
固者であった。
 市松はひと昔前までは、裸足の医者と呼ばれるほど人々に慕われていた。人里離れた山
深い村の人々に、尊敬と愛着を抱かれ、神様のように思われていた。雨の日には、村人と
共に雨の哀楽を味わい、風の吹く日には、村人と共に風のように走り、晴れた日には、村
人と共に晴れやかに苦楽を共にしていた。このような生き様は、市松の持って生まれた性
格から自然に出てくるものであった。村人は、大人から子供、老人、村の家畜にいたるま
で、好感を与え、市松の預かる診療所は、病気で訪れる人から、借金の相談や恋煩いの相
談にいたるよろず相談人でいつも満員であった。恋煩いの相談人には、
「お医者様でも、草津の湯でも、惚れた病は、治りゃしないよってね。そんなの、相手の
胸にドーンと当たるしかないんや。」と、言うのが口癖で、快いジョークの名手でもあった
。お金事以外の殆どの問題は、市松の治療で治ってしまった。村人は、その人間性に富ん
だ土臭い気さくで愛情あふれる治療で大満足していた。村人は、益々その魅力に引かれて
いったのである。
 市松は昔のことを、全く口にしなかった。というよりも、わざと、過去の名声に触れよ
うとしなかった。自分が医者であったことすら、忘れようとしていていた。市松の頭の中
に存在するものは、人間への愛と妻への慕情と僅かな酒だけであった。そんな市松の唯一
の楽しみと言えば、日雇いの日当で手に入れる三千円程度の報酬で買う合成焼酎だった。

市松は、山下元八の納屋を借りてそこで生活をしていた。納屋と言っても、つい最近まで
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