その背は美しく燃えている【中編】

深める・2

「でもそんなにうまくいかなかった。前々から私に不満があった輩が、私があの子の絵を盗んだって先生にチクってね。あの子も先生に抗議してくれたんだけど、その頃にはもう私の学年中に噂が広まっちゃってて。世間体を気にした先生は私を美術部から退部させて、それで終わり。あの子は残ってって言ってくれたんだけど、確かに私の行為は盗作と言われても仕方のないものだし。結局私は芸術から逃げた」



 逃げて、ここに居る。そう言い切ると、語尾だけが空間に漂い、静寂が訪れた。一つずつ事実を噛み砕いても、認識の齟齬が生じてしまいそうで、佐野は呆然とするしかできない。ふと、凪がキャンバスをなぞった。きめの細かい長い指が、白鯨のようにキャンバスを泳ぐ。彼女の指先から絵具が流れ出ているのではと錯覚するほど慈しみをこめて向日葵と向き合っている。それは悪魔の姿ではなく、憂いを抱えた一人の少女だ。



「なんで悪魔?」



 気づけばそう口にしていた。あてもなく投げつけるような口調だった。凪は肩を揺らして驚く。言う言わまいか、逡巡する動作を見せたあと、凪は佐野を引き寄せずにおかないような力のこもった瞳で彼を見つめた。



「噂に尾ひれがついただけ。おかげで個人が特定されずに済んだし、助かった。まぁ、それは他学年の話であって、同級生は知ってるからどのみちぼっちだけど」


「そっか」


「あとは何か聞きたいことある?」



 頭の中のメモをめくる。言っていいものかどうか、彼女を傷つけないかどうか、十分に選定する。考えに耽ると、色々なものが繊細に捉えられてきた。時計が刻むコツコツと乾いた音。月夜に埋もれる、凪の時々鼻をかみながらすすり上げ、泣き伏す痛ましい声。凛とした静けさの、ツンとした匂い。あって当たり前のものが、その実、奇跡に近い存在で日常に居座っているだけなのだ。



「ここに凪さんが火曜日に居るのは、奇跡」



 問いではない断定に、凪は苦笑する。しかし佐野は至って真面目である。五感に身を傾けて、存在が稀有なものであると気づいた。それを伝えなければいけないと思った。流れ出る涙も拭わずに、気丈に振る舞おうとする脆い少女のために。
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