いつか夏、峰雲の君

 「じゃあ、行ってくる」


  心に穴が開いたとはよく言ったもの。人はそれを悲しみとは言わずに、穴と表現する。


 それは何故かと思考を巡らし、答えはすぐに見つかるのだ。


 簡単な話、悲しみは癒えるが、穴は埋まらない。


 穴というものは、取り返しがつかないもの。失ってから慌てて手を伸ばすが、それはもう遠くに行っていて届かない。残るのは喪失感だけ、だから穴。


 全ての準備が整い、全ての条件が整った9月の26日。僕の脳裏にそんな事がよぎっていた。


「おーう、帰ってきたらカップ焼きそば作ってるからな。早くしないと食っちまうかも」

「勝平ラーメン派でしょ? 珍しいね」

「いや、そうじゃなくてだな……」


けど、手を伸ばすことは本当に無駄なのだろうか? 他のもので埋められるような穴は、本当に大切だったと言えるのだろうか?


 僕も、きっと勝平だって、その穴を取り戻すためにここまでの人生を走ってきたのだから……。


「夏希に言っておきたいことある?」


 だけど僕がその言葉を投げた時に、勝平はいつも何も言わない。



「……おいおい登吾、身軽な登山がお前の武器だろ? 俺の言葉なんか持つぐらいなら、酸素ボンベ背負ってくれよ」

「……そっか、ありがとう」


  そして行ってくると彼に背を向け、遠く雄大なエベレストへと向かい合う。


 別れ。僕が死んだら彼は悲しんでくれるだろうか? 久しく感じるこの恐怖は、命へのものではなく別れへのものかもしれない。


 冷たく肌を刺すこの感じ、空気。それはあの黒い玄い夜の様で——


人との出会いはまるで磁石の様だ。彼女は僕に多くのものを与え、そして奪ってしまった……

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