きみが空を泳ぐいつかのその日まで
「じゃあ今からは今後のことについて話そう」

お父さんは姿勢を正したのか、椅子の足が鳴る音がした。

「お父さんは、今度の──」

その先の言葉を、体が拒絶した。
顔を上げると、お父さんが悲しげな目でこっちを見ていた。

「それがいいと思うな」

お母さんはわたしの手を取り微笑んで、千絵梨に声をかけた。

「お姉ちゃんはどう思う?」
「……いいんじゃない」

千絵梨が何かを揉み消すように、テーブルの下で手を握りしめているのが見えた。

「……いや」
「えっ?」

吐き捨てた声は、誰の耳にも届いていなかった。

「イヤだって、言ったの!」

あわてて立ち上がると大きな音を立てて椅子が倒れ、くらくらと目眩がした。

「つぼみ!」

あんなに恋しかったはずのお母さんが駆け寄るのがただうざったく、煩わしくて仕方なかった。

「触らないで!離して!」

何もかもを振り払って部屋を飛び出そうとしたら、目の前に千絵梨が立ちはだかった。

「今出ていってあんたに何ができんの? こっから出て行ってあんたに何ができんのよ、もう逃げるのやめなよ。考えなよ!」

千絵梨の怒号が心を凍りつかせたけれど、もうとっくに自制心なんかなくしてしまっていた。

頭のてっぺんから神経の糸を引っこ抜かれたように気が遠くなって、気づいたらまた病室のベッドの上だった。

白い部屋が眩しすぎて目が痛い。
視線の先でポタポタと滴り落ちる点滴の中身が、すべて誰かの涙のような気がして目を逸らすことができなくなった。

きっと天罰が下った。
誰かの幸福を吸いとることでしか生きられない、邪悪な植物にされてしまった気分だった。

それなのに翌日に点滴はあっさり取れて、代わりに若い看護師さんがやってくるようになった。お薬飲もうね、って毎日優しく声をかけてくれる。

「ゆったりした気持ちになってね、よく眠れるようになるよ。気付いたら痛みも消えてるからね」
「ほんとうですか?」
「うん」
「ならいらない」
「どうして?」

看護師さんは私を責めず、静かに問い返しただけだった。

「だって……」

もしそうなら、これはあのふたりの物だ。
千絵梨も久住君も、ずっと痛いに決まってる。きっと今もそれに耐えてる。

中にいると何もわからない。
どこの病院に、何日入院したのかも曖昧なままだった。

退院してはじめて、自分が心療内科にいたことを知った。飲めなかった薬は、今もバッグの底にしまってある。
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