すばるとしみずのあいだには、しゅっとしてもふもふのおれがいる。

2月、晴れ その2







『あー……ごめんごめん。起こした?』
「いや……どうした」
『うーん……ちょっと……ハイジに頼みたいことが』
「なんだ」
『いやぁ…………大変不本意なんだけど、俺のお願い聞いてくんない? 心底……いや、地の底から不本意だけど』
「いいからさっさと本題に入れ」
『…………すばるさんのこと……お願いしていい?』
「………………は?」
『俺の代わりに……すばるさんを大切にしてくんない?』
「何言っ……今どこだ!」
『ははー……しくった』
「清水!」
『あとついででいいから……くるり回収してやって……多分生きてるから、ぺちゃんこにされてたけど』
「だから今どこだ!」
『川だねぇ……橋の下…………約束してハイジ』
「断る……今から行く」
『……ま、断られるだろうと思ったけど、期待はしていますので』
「……くそが!」
『くそだねぇ……ごめ……ちょっともう、本気でムリっぽいので』
「おい!」
『よろしくしてね……ほんとごめんて、すばるさんに伝えて。……ごめんなさいって』







位置情報を頼りにすばるは堤防の上の遊歩道を走る。

きんと冷えた空気の中に、湿り気と温度を感じる川の匂いが混ざる。
どくどくうるさい心臓の音に、黙れと一度強く胸の上を叩いた。

落ち着けと繰り返し、清水の痕跡を探ろうと顔を持ち上げる。

微かな風の中に、わずかな血の匂いと、それに混ざる甘ったるい匂いを嗅ぎとった。
粘着質で、気分が悪くなるほど甘い。
強い不快感で胃の辺りがむかむかする。
内臓ごと口から出そうな嫌悪感だ。


その匂いがする方向に堤防を駆け下りた。

ススキや背の高い草ががさりがさりと乾いた音を立てる。


草をかき分けて進んだ先、幹線道路の高架下、冷たいコンクリートの上で真っ黒な影の塊を見つけた。
どこからか反射しているわずかな明かりで、ふわふわとした銀色の縁取りが目に入った。

ぴたりと足も、息も止まる。

「…………ウルフィー…………し……しみずさ……」

重たい足を踏み出して、どうにか前へ進み、たどり着くと跪いて上から覗き込む。

「しみずさん!…………しみずさ……どうしよ……あ、でん……電話」

莉乃に連絡したいのに、手が震えてなかなか思うようにならない。
目もよく見えない気がして、邪魔な涙をぐいと袖で拭った。

呼び出し音がワンコールもしないうちに通話が始まる。

どうだったと聞こえた莉乃の声はいつもより低く聞こえた。

それで少しだけ落ち着いて、何とか答えようと声を出す。

「倒れてます……血がいっぱい……出て……それで」
『どこから血が出てるの?』
「お腹です、あと傷から内臓が……」
『息はある?』
「…………はい、ゆっくりで、でもあんまり……」
『すばるさん。すばるさんの方こそ、しっかり息をして。いい? 清水君は人の姿かな?』
「ウルフィーです……」
『うん……服はどう?』
「ふく?」
『周りにある? ない?』
「……あ、あ、すぐ近くに上着とか靴とかが……」
『そっか…………すばるさん連れて帰れる?』
「……はい」
『じゃあ、お願いね。待ってるよ』
「……はい!」

電話を切った直後にバイクのエンジン音に気が付いた。ハイジが呼ぶ声が聞こえて、ここだと返事をする。

すぐに草をかき分けてハイジが堤防を下ってきた。

「すばる!」
「ここです! 莉乃さんが待ってるので、連れて帰ります……私、行きますね!」
「運べるのか」
「ハイジさん担いで走ったの覚えてます?」
「……だな」
「はい」
「…………くるりを見なかったか」
「え? くるりさん?」
「あいつもどこかで死にかけてる」
「そ……え……」
「探せるか」
「わたし……でも……」
「すばる!」

大きな手がすばるの両肩を掴んで、一度大きく揺さぶった。
鋭い目線がすばるを射抜く。

「俺が探したんじゃ時間がかかる。……頼む」
「…………はい」

莉乃からもらったマフラーを外して、ウルフィーの腹にぐるぐるに巻いて、きつく縛った。

ぎゅうと一度縋ってからすばるは立ち上がる。

「……この近くに?」
「それもわからん。くるりの位置情報は随分前から消えていた」
「……なにかあったら呼んで下さい」
「……ああ」

くんと鼻を鳴らすと、吸い込んだのは清水の血の匂いと咽せるような甘い匂いばかりで、すばるはぐしゃりと顔を歪ませる。

涙は止まらないし、膝はがくがくして、今にもこけてしまいそうなほど頼りない。
こけたら最後、立ち上がれる気がしない。

ばちんと両手で頬を叩いて、そのまま涙を拭った。

すばるの頬に清水の血の筋が走る。


勘を頼りに、さらに川上の方に向けて、すばるはふらふらと走り出す。



また草の中に飛び込んで、かき分けて進んで行くと、草の匂いが強くなる。

暗闇の中で光る目は、草が少しばかり折れたり曲がったりしている場所を見つけた。

草の倒れている方向に進む。

「……くるりさん?」

小さな声で呼びかけると、遠くでこそりと小さな物音がする。

「すばるです、くるりさんですか?」

きゅきゅと答えが帰ってきて、すばるはその場所に急いだ。

草むらの中に、くるりが着ていたであろう子供サイズの白いパーカーと、その中に丸く蹲る茶色でふわふわの毛皮を見つけた。

「……見つけた……帰りましょう、くるりさん」

両手に収まるほどのまん丸は、すこし長く伸びて、頭の方がすばるを見上げる。
真っ黒でつぶらな目は町の明かりを小さく映して、鼻がひくひくすると、まわりのヒゲもさわさわと揺れた。

「動けます?」

持ち上げていた頭を下げて、再び丸まってしまう。

「私が運びますね」

パーカーで包むようにして持ち上げ、腕の上に置くと、それに沿うように体を長く伸ばした。

どこか痛むのか呼吸は弱々しいし、苦しそうな声が漏れる。

細長い体と比べたら釣り合いの取れていない短い足が、力無くぷらぷらとしている。
もしかしたら足が折れているのかもと、すばるはなるべく揺らさないようにハイジの元まで走った。

「くるりさんですよね」
「……だな……こっちもか……こいつは俺が連れて帰る」
「はい……くるりさんお大事に」

ハイジの腕の中に寝かし入れてから、すばるはくるりの長細い背中の毛を、そっと指先で撫でた。


清水に覆いかぶさって、息の音と、心音に耳を傾ける。

「脱げてる服は……」
「回収する、任せろ」
「血とか……」
「いいから行け」
「……はい!」

ウルフィーを向かい合わせになるように抱えて持ち上げる。

背中と尻の下を支えて、すばるはふかふかの首元に顔を埋めた。

「……がんばって清水さん。ちょっと揺れますよ」

いつか聞いた台詞を今度は自分が言っていることに、奥歯を噛みしめる。
ぐと漏れた声が聞こえたのか、ハイジがすばるの背中を押した。

「腹を括れ、迷うな、思考を止めるな、余計なことに足を取られるな、行け」
「……ぅ……はい!」




家に帰って、玄関扉を開けた途端、莉乃はきつく眉を寄せる。


英里紗に離れろと命令(・・)をする。
そう言われるより前から、英里紗はじりじりと少しずつ後ろに下がっていた。


「……ありがとうすばるさん……このまま部屋に運んでくれるかな?」

はい、と頷いてすばるは清水の部屋に向かう。

通路を後ろから付いてくる莉乃が、ごめんねと声を漏らす。


「ごめんね……僕はもうこれ以上清水君に近寄れない」





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