拾った宰相閣下に溺愛されまして。~残念イケメンの執着愛が重すぎます!~

41.記憶を喪失いたしまして。




 急遽店を閉め、大至急で来てもらったお医者さんも含めて見守る中、エリアスは目を覚ました。

「エリアスさん!!」

 ふるりとまつ毛が揺れ、瞼が開いてアイスブルーの瞳が覗いた途端、フィアナは再び泣きそうになった。その肩越しに、カーラもエリアスの顔を覗き込んで安堵の息を吐いた。

「気分はどう? エリアスさん、フィアナを庇って倒れたのよ」

「すまん、エリアス! 俺が頭に血が上っちまったばっかりに!」

「本当よ! このおたんこなす!!」

 ぱんと両手を合わせてニースが身を縮め、その背中をキュリオがばしんと叩く。それを不思議そうに眺めるエリアスに、ベクターも身を乗り出す。

「額の傷は浅いけれど、頭をぶつけているからね。お医者さんにみてもらおう。簡単な問診をするそうだけど、大丈夫かな?」

「ええ。それは、まあ……」

 妙に歯切れの悪いエリアスに、フィアナは首を傾げる。それにエリアスは、最初に戸惑ったようにフィアナを見た限り、なぜか視線を合わせてくれない。胸の中が嫌な予感にざわつく中、フィアナはぎゅっとエリアスの手を掴んだ。

「エリアスさん。何か気になることがあるなら教えてください。どこかおかしいんですか?」

 エリアスの視線が、ゆっくりとフィアナに向けられる。それから彼は、ベクターやカーラ、キュリオにニースと見知った人々を順番に見廻し、最後にもう一度フィアナを見る。

 それから彼は、申し訳なさそうにこう言った。

「すみません……。ここはどこですか? あなた方は……皆さんは、私をご存知なのですか?」

「えっ」

「は?」

「ん?」

「あら」

「はい?」

 5人が5人とも、呆けた声を漏らす。そんななか、ひとりだけ冷静さを保ったまま、医者が皆の間を縫ってエリアスの顔を覗き込んだ。

「失礼。あなたは、この方々をご存じない?」

「え、ええ。初めてお会いします」

「グレダの酒場。この名前に聞き覚えは?」

「ありません。王都にある店なのですか?」

「なるほど、なるほど。続いてですが……」

 そのあとも医者はいくつか質問を重ねた。そうやって問答を重ねたところで、医者は納得したように大きく頷いた。

「やはりそうだね。一時的な記憶の混濁。頭をぶつけたことによるショックかな」

「……まさか、それって」

「要は記憶喪失だね」

 さらっと言ってのけた医者に一同が固まる。一瞬の沈黙の後。

「えええええええ!?!?!?」

 深夜にも拘わらず、5人分の悲鳴がこだましたのだった。





「おっさんが記憶喪失だって!?」

 翌日、報せを聞いたマルスがグレダの酒場に飛んできた。今日は安息日のため、店自体はお休み。それをよく知るマルスは裏口からベクターに入れてもらうと、あわただしく二階まで駆け上る。

 そして勢いよくダイニングの扉を開け、はじめのセリフに戻るというわけだ。

 ダイニングテーブルには、フィアナ、エリアス、カーラが並ぶ。ぜえはあと肩で息をするマルスを、一同はキョトンと見やる。ややあって、エリアスが困ったように笑いながら小さく頭を下げた。

「その、初めまして?」

「ちっげえよ!!」

 もどかしそうにマルスは頭を抱えた。

 ――さて。エリアスの症状だが、医者の見立てによると次のようなものらしい。

 まず、記憶を失っているのはこの数か月分のみ。境となるのは年が明けた頃あたりで、それ以前の基本的な知識、たとえば自分が何者であるかといったことは支障なく覚えているようだ。

 そして、この症状は、おそらく一時的なもの。ただし記憶がいつ戻るか――それが明日なのか、一年後かは、まったく見通しが立たないとのことだ。

「覚えているのは、去年よりも前のこと。……ってことは」

「そうなんだよね」

 マルスの言葉を引き継いで、フィアナは頷く。肩身が狭そうに椅子に座るエリアスをちらりとみてから、肩を竦めてみせた。

「私たちのことや、グレダの酒場のこと。いまのエリアスさんは、一切覚えてないんだって」

「はぁぁぁぁああ!?!?」

 目を剥いたマルスが、がたんと椅子を蹴って立ち上がる。それから彼は、信じられないものをみるような顔をしてエリアスを見下ろした。

「記憶がない!? この半年分だけ!? そんな都合のいい記憶喪失、あってたまるか!!」

「あったんだから仕方ないじゃない。お医者さんも『珍しい症状だけど、たまにあるからねー。仕方ないねー』って言っていたよ」

「軽っ!! 全体的に軽っ!!」

 がしがしと頭を掻くマルス。そして、ふと思い出したようにエリアスを睨んだ。

「フィアナは!? おい、おっさん。フィアナのことまで、忘れたとか言わないよな!?」

「……面目ありません」

「面目ありません、じゃねえよ! あんたの天使で女神でスウィートハニーなんだろ! なにケロッと忘れてんだよ!! どれだけうっとおしくフィアナのこと追っかけまわしてきたと思ってるんだ、あんた!?」

「やめて、マルス!」

 尚も詰め寄ろうとするマルスを、フィアナは制止する。そしてフィアナは、戸惑いつつも申し訳なさそうに表情を曇らせるエリアスに、明るく笑いかけた。

「大丈夫ですよ、エリアスさん。お医者さんも、ある日急に治るかもって言っていたじゃないですか。とにかく、大きな怪我がなかったのが何よりです。記憶の方は焦らず、ゆっくり取り戻していけばいいんです」

「……だけど」

「そうそう!」

 心配そうにこちらを見るマルスを遮って、フィアナは両手を合わせた。

「そろそろ、ダウスさんがエリアスさんを迎えにくる時間のはず! 私、寝室に行ってエリアスさんの荷物まとめてこなくちゃ」

「っ、大丈夫です。荷物なら自分で……」

「いいです、いいですって」

 立ち上がろうとしたエリアスを、フィアナが宥める。そうやっておとなしく座らせてから、フィアナはぐいと両腕を組んでエリアスの顔を覗き込んだ。

「ダウスさんがシャルツ陛下に内密に連絡を入れくれたそうですから、今日は仕事もお休みです。お屋敷に戻っても、動き回ったり、ましてや仕事したりしちゃダメですよ。万が一のことも考えて絶対安静! お医者様さんの命令ですからね」

 それだけ言うと、フィアナはてきぱきと手近の荷物をまとめてから、エリアスに貸していた部屋へと消えていく。その背中を見送りながら、マルスは拍子抜けしていた。

(……案外、平気そうだな)

 なにせエリアスが自分を庇って怪我をし、そのうえで記憶喪失にまでなったのだ。正直もっと取り乱したり、暗い顔をしているかと思った。

 そう思ったら居ても立っても居られなくて家を飛び出してここまできたのだが、もしかしたら取り越し苦労だったのかもしれない。そのように思いながら、何か手伝えることはないかと、マルスはフィアナの後を追ったのだが。

「……っ。エリアス、さん……」

 ドアノブに手を掛けた瞬間、中から聞こえた嗚咽交じりの声に、マルスは扉を開けるのをやめた。かすかに空いていた隙間からそっと目を凝らせば、部屋の中心に立ち尽くして、フィアナが泣いていた。

 その苦しそうな泣き声に、マルスはかっと頭が熱くなるのを感じた。

 意外と大丈夫そうだなんて、どうして思ったのだろう。少し考えればわかるはずなのに。自分は一体、彼女の何を見ていたというのだ。

 ぎりっと唇を噛みしめ、マルスは顔を上げた。ばたんと扉を勢いよく開けると、弾かれたようにこちらを見て目を丸くするフィアナのもとに大股に歩み寄り、がばりと抱きしめた。

「ま、マルス……?」

「今だけだ」

 困惑を滲ませるフィアナに、半分は自分自身に言い聞かせるようにして、マルスはきっぱりと答える。そうして涙にぬれる頬を自分の胸に押し付けると、表情を歪ませこう言った。

「今だけ、俺の胸を貸してやる。――だから、今は我慢するな」

 腕の中で、フィアナが息を呑む気配があった。続いて聞こえたのは、小さな嗚咽。それを皮切りに、フィアナはマルスにしがみつくようにして、子供のように涙を流したのだった。
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