私しか、知らないで…

「寒くない?」



3月になったばかりの夜は

まだ寒かった



「うん、大丈夫…」



そう言った紫苑の鼻先が少し赤くなってた

寒いんじゃなくて

泣いたから?



パーキングからすぐのマンション



当たり前だけど
階段じゃなくてエレベーター



紫苑が前に住んでたアパートとぜんぜん違う



「いいとこ住んでんだね」



「うん、彼が半分出してくれてた」



エレベーターから降りると
紫苑はカツカツヒールを鳴らして歩いた



「どーぞ…」



「あ、でも、オレここで…」



「上がらないの?
大丈夫、誰も来ないよ
…
今日も明日も…
もぉ誰も来ない」



そう言った紫苑の顔がすごく寂しそうだった



「おじゃまします」



「適当にソファー座ってて…」



コートをハンガーに掛けながら紫苑が言った



「彼って、あの人?
あの時の…
確か…会社の上司…って…」



「うん、そーだよ」



紫苑が選んだ人


オレより
その人を紫苑は選んだ



「へー…あれから、ずっと付き合ってたんだ
なんで、別れたの?」



「奥さんがいたから…
…不倫だったの…」



「へー…」



不倫



オレの興味のない分野

たぶん一生関係ないと思う



「付き合う時、知ってたの?」



「うん、知ってた」



それでも

奥さんがいても

あの時、紫苑は彼を選んだ



オレは選ばれなかった



「でも、好きだったんでしょ
10年くらい?付き合ってたわけだし…
幸せだったんでしょ」



「幸せだったかな…?
…
幸せになりたくて、別れたのかも…」



「こんないいマンション住んでても
もっと幸せになりたいんだ
…
オレのアパート
この前、上の人が水漏れして大変だった」



紫苑が笑った



「人の不幸笑うとか、最低だな」



「ごめん、ごめん…」



オレはまだ大学の時のアパートにいた


紫苑と抱き合った部屋

紫苑がいなくなって広くさえ感じた


住み心地がいいわけじゃないけど

そこから動きたくなかった



「はーあ…
ここも引っ越さなきゃ…
…
ねぇ、まだ変な魚いっぱい飼ってるの?」



「変な魚って、失礼だろ!
仕事してからは職場で飼ってる
あの水層の音を
無性に聞きたくなる時あってさ
この春休みに
水層ひとつアパートに移動させる予定」



紫苑がいなくなって

水層の音が耳触りだった



なのに今は

なんとなくまた聞きたい気持ちに駆られる



「相変わらずだね…亜南くん」



紫苑がまた笑った



きっとこんなオレに

紫苑は愛想尽かしたんだろうな…



紫苑だけじゃなくて

みんな



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