マリオネットは君と人間になる
放課後。いつものように教室の掃除を終えて教室から出ると、今日は廊下の壁に寄り掛かって私を待つ森くんの姿がなかった。
廊下を歩いていく他クラスの生徒が「A組の体育教師から逃げる不良を見かけた」と言っていたのを聞いて、なんとなく察する。
……ご武運をお祈りします。
心の中で両手を合わせ、一足先に視聴覚室へと向かう。
様々な部活動の声と琴の音色が響く廊下を歩き、視聴覚室が見えたそのとき。
「それは日野川先輩だけの宝物じゃないんですっ‼」
それらの音をかき消す、劈くような高い声が廊下に響き渡った。
突然の声に肩を震わせ、私は足を止める。
勢いよく視聴覚室のドアが開き、竹市さんが奥の廊下へと駆け出していく。
一瞬のことでよく見えなかったが、普段は整っているショートカットは乱れていて、竹市さんは真っ赤な顔で、涙ぐんでいた気がした。
「待って、莉帆っ!」
同じように視聴覚室から出てきた室谷さんが、竹市さんの後を追いかける。
……何か、あったのかな。
呆然と二人を見届けた後、恐る恐る二人が出て行った視聴覚室に入る。
「え……っ⁉」
「……やぁ、お人形さん」
入ってすぐ側の収納棚の前で、日野川先輩が片足を立てながら、床に座り込んでいた。
収納棚に背中を預けて項垂れていた日野川先輩は、私に気がつくと、いつもと変わらない声で挨拶をする。
辺りに散らばった、くちゃくしゃに丸まった紙、台本を製本する際に使うホチキスの芯、そして……無残に切り刻まれた日野川先輩の今まで書き上げてきた台本の詰まったノート。
それらの存在なんて、これっぽっちも気にしていないように、普段通りに日野川先輩は笑う。
「どうしたの? お人形さん。そんな悲しそうな目をして」
日野川先輩はコテンと首を倒して、私を見上げる。
「……日野川先輩。これって……」
「あはは。お人形さんも、二人と同じ反応をするんだね。別に、お人形さん達に向けて書かれたものじゃないのに」
「逆にどうして……なんで日野川先輩は、そんなに落ち着いていられるんですか……っ?」
私はボロボロになった、くすんだ水色のノートを両手で拾い上げる。
日野川先輩との補習の際、いつも私が手にしていたノート。
今まで、私をたくさんの物語の世界に連れて行ってくれて、励ましてくれた大切なものだ。
それが今では、カッターか何か鋭利なもので表紙を切り裂かれ、中のページにまで貫通して破けている。
「これ、日野川先輩の宝物なんでしょう……? 宝物がこんなふうにされて、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか?」
「……さぁ。どうしてだろうね」
日野川先輩は目を伏せて、他人事のように呟いた。
「どうしてだろうね、って……!」
私は被害者である日野川先輩よりも感情的に叫ぶが、日野川先輩はそれに動じることなく、無言で俯く。
しばらくの沈黙が流れた後。日野川先輩は顔を上げて、にっこりと微笑みながら言った。
「……お人形さん。僕さ」
「——僕さ。わからないんだよね。自分や周りの人の、〝感情〟ってやつが」