頑固な私が退職する理由
 そんな顔をして、いったいなにを言うのだろう。
 私はタルトを食べる手を止めて彼を見つめ返す。
 心は不安と期待が入り混じって落ち着かない。
 数秒無言が続いている。なんとなくだけど、また少しずつ彼との距離が近くなっている気がする。
 私の顔を見つめていた彼の視線が、ふと右斜め下へと外れた。
 釣られて私も視線を下げると、次の瞬間、彼が私に急接近。
「えっ?」
 声をあげるや否や、私は手首を彼に取られ、指に生温かくて柔らかい感覚を覚えた。
「ひゃあっ……」
 条件反射で変な声が出る。
 私の指は、もうタルトを掴んではいなかった。
 サク、サク、サク……小気味よい音。満足そうな彼の笑みと口の動き。
「……ありえへん」
 この野郎。私のタルト、食べやがった!
 しかもその時、ちょっとだけだけど、彼の舌が私の指に触れた。その艶かしい感覚が甘い痺れになって全身に伝播している。
「お。久々に出たなぁ大阪弁」
 不埒な感情を発散するように、私は大きな声で対抗する。
「京都弁や! 大阪と一緒にしんといて! つーかうちのタルト返せ!」
「もうないし。油断するやつが悪い~」
「ほんま腹立つ!」
 これ見よがしにお手ふきで指を拭く。青木さんはゲラゲラ笑っている。
 もしかしたら……なんて期待して損した。大損した。
 ちょっと期待するとこれだ。結果はいつもこうなる。
「別にいいだろ。俺が買ったんだし」
「私がもらったものじゃん!」
「あ、戻った」
 思わせぶりに色っぽい雰囲気を漂わせておいて、なんなんだ。
 こんなの、絶対に私の気持ちをわかったうえで遊んでいる。
「早くそれ終わらせて、飯行こうぜ。ちょっと食ったら腹減った」
「青木さんのおごりだからね」
「はいはい。わかってますよー」

 絶対に私から好きだとは言わない。
 私はもうずっと前から、そう決めている。
 自分から好きだと言えば、きっと彼は私の恋人になってくれるだろう。
 大切にしてくれるだろう。
 幸せにしてくれるだろう。
 それでも頑なに自分から告白しないのには、私なりの理由がある。

 私たちの密かな攻防戦は、もう何年も続いているけれど、終わる兆しが見えない。

< 13 / 130 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop