料理男子、恋をする
夜で空気が静まっている中で、叫ばれたわけでもない声はきれいに佳亮の耳に届いた。声の方向を振り仰ぐと、ベランダからその人がこちらを見下ろしていて、煙草を持った手をひらひらと左右に振っていた。

「……?」

よそのマンションの前で声を出すわけにもいかず、佳亮が上を見上げてじっとしていると、その人は指で地面をぴっとさして、まるでそこから動くな、と言ったようだった。そのまま人影が部屋の中へと入っていく。どうしたらいいのか分からなかったけど、もし本当に動くな、と言っているのだったら、ちょっと待ってみなければいけないかな、と思い、中がどろどろになったバッグを手に提げ、佳亮は立ち上がった。

すると、直ぐにそのマンションのエントランスから黒のハイネックに黒のニット帽をかぶった人影が出てきた。やっぱり動くなという意味だったのか。佳亮はほけっとその逆光のシルエットを眺めてしまった。

「何が駄目になったの」

その人―――女の人―――は開口一番、そう聞いてきた。

「…え?」

「それ。なんか駄目になったんでしょ?」

それ、と言って、彼女は佳亮が持っているバッグを指差した。

「あ、ああ…。卵が…」

聞かれるままに答えると、彼女は、そう、と言って、手に持っていたらしいキーホルダーをちゃり、と鳴らした。

「コンビニまで連れていくわ。私の所為かもしれないし」

「へ?」

彼女の言葉に佳亮がぽかんとすると、だって、と彼女は申し訳なさそうに言った。

「だって、私と目が合ったから、鞄落としたちゃったんでしょ? 何か申し訳ないから」

言われて、先刻の状況を認識してしまい、佳亮はぱあっと顔に熱が広がるのを感じた。そうだ、先刻のは、佳亮が彼女のことを見ていて、それでこの人と目が合ってしまったということなんだった。

「あ…っ、いや、すみませんっ。ちょ、ちょおぼんやりしてただけで…」

「うん…。まあそうかもしれないけど、驚かせたのかなって思って。だから気にしないで。もうスーパー閉まってるし、コンビニで良いでしょ?」

ちゃりちゃりっと小さな金属音をさせて、彼女がキーホルダーを振る。そして指差した方向は、マンションの前に設けられた駐車スペース。…あの車に乗るってことなのだろうか?

「…っ、いやっ、いいですいいです。ホンマに僕の不注意だけなんで。それに、コンビニなら歩いていけますし」

「そお? …じゃあ付き合うわ。やっぱり、なんとなく悪いから」

ええっ!? いいです…、と言ったけど、最終的には彼女に押し切られてしまった。
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