君のブレスが切れるまで

第28話 祝福の眼

 2018年 2月 中旬


 この時期になると一層、寒さの厳しさが目立つ。冬による春前の最後のあがきと言うものだろうか? 特に冬は息が長くてしぶとい。それを言ってしまえば夏もそうなんだけど。
 1月から今に掛けて、雪が降ることが多かった。街の人は雪に慣れていないのか足取りは遅く、転んでいる人も見受けられる。


 こう見えて私はバランス感覚がある方だと自負している。極力気をつけて雪の積もる路面を踏みしめていく。
 雨にプレゼントした赤い傘が初めて使われたのはこの頃だ。空から降り注ぐ水を防ぐ為ではなく、氷の粒を防ぐために広げられた。
 彼女の傘に入れてもらいながら歩いていると、彼女は喜んでいるようだった。


「とてもいい傘ね。使うのがもったいないくらい」
「使ってくれないと傘も私も悲しんじゃうよー?」
「悲しむ……それじゃ使わないわけにはいかないわね」
「うん! っ――わっ!」


 足が雪で滑り、私の体が一瞬だけ宙を舞おうとした瞬間――


「気をつけて、奏。足元はとても滑るわ」


 傘の中で雨が手を取ってくれる。
 危うく転びかけた。雨の助けがなければまた体に痣を作ることになっていただろう。
 バランス感覚がある方だと思っていたのに、それを打ち砕かれてしまった。でも、転びそうになったおかげで前にもこんなことがあったのを思い出す。
 確か前の雨のアパート、鉄製の階段で滑ってしまった時も助けてもらったんだ。


「えへへ……ありがと」
「もう、喜ぶところではないわよ?」
「そうなんだけど、昔を思い出してなんか懐かしいなって」
「懐かしい……」


 雨はそう呟くと、すぐに気づいてくれた。


「そうね。初めて奏が私の家に来てくれた時も、足を滑らせていたかしら?」
「そうそう! あの時、雨の階段の上がり方が綺麗だなーって思って、真似してみようとしたんだ。体中痛かったはずなのに、何やってんだろうね?」
「そんなことを思っていたの? でも、あの時の私は咄嗟だったわ。全身の血が冷え固まりそうなくらいだったもの」
「……心配してくれた?」


 私はまだ雨に教えてない感情を聞いてみた。彼女は今までとても私のことを心配してくれていた。でもそれは言葉としての意味しか持っていないわけじゃなかったはず。
 今の彼女なら答えが出せるかもしれない。


「心配。そうね、とても心配した。心配だった。でも、私にはわからないの。心配すると痛むこの胸の理由が……」


 そういうと雨は胸を押さえて、その場に立ち止まった。
 無表情な顔の奥には、確かに悲しみの表情が見える。きっと世界中で私にしかわからない表情の変化。


「ねぇ、奏。私は自分が心配しているのはわかっているの。でも、この気持ちは一体何なの?」
「それは……」


 前にも心配という言葉の意味を知るため彼女は私に聞いてくれていた。
 でも、雨はその意味を言葉だけじゃなく、きっと感情でわかり始めている。それは紛れもなく答えなんだ。
 雨は心配という言葉の答えを導き出した。その先を教えるのは私の役目。雨がもっと雨らしくいられる為に、私が導くの。


「きっと、私が怪我とかをしたら雨は悲しいんだよ。だから、もう泣いちゃダメだよ?」
「私は泣いて……なんか……」


 赤い眼が揺れ、二つの瞼から零れ落ちる涙を私は拭ってあげる。
 たったこんなことで泣けてしまう雨はとても心が綺麗で、悲しみという感情に敏感なんだ。


「もし私がいなくなったら、雨はどう思う?」
「それは……っ! 考えただけで胸が張り裂けそうになるわ!」


 雨の感情が引き出される。
 こんな風に声を荒げた雨を私は見たことがなかった。だから、とても嬉しい。


「ごめ……んなさい。気が動転してるみたい。感情って知れば知るほど……深いものなのね」
「大丈夫。きっと雨はずっと前から、私の為に感情が出ていたんだと思うよ?」


 私は雨を抱きしめ、耳元でそう囁く。遅れて雨からは疑問を意味する「……えっ?」という言葉だけが返ってきた。
 冬の街路樹には雪が積もり、その下、歩道の隅でギュッと力強く抱きしめる。
 傘の影響で回りは見えないけど、『邪魔にならないんだからいいでしょ』と心の中で回りの人へ悪態をつく。
 そして目を瞑り、


「あの時の答えを教えてあげるね」


 雨へ言葉の意味を教えていく。


「雨は私がいなくなるのは寂しいって思ってくれてる。きっと、私があげた黄色い傘が壊れてしまった時はすごく悲しんでくれたんだと思う。喫茶店で待っていたはずの雨が私を助けにきてくれた時は心配して、あの三人には怒りを持ってくれていたんだと思う」


 それを告げていく度、雨の体は少しずつ小刻みに揺れ始め、私の体を抱きしめ返してくれた。


「私には雨の気持ちを思うことしかできないけれど、その時の感情はすべて私が起因して現れたものだからなんとなくわかる。雨の気持ち、私は少しくらい理解できてるかな?」
「ええ……ええ。私の感情はそうだった、その通りだったわ……悲しくて、寂しくて、怒っていた。奏に出会った時から、私の感情というのは芽生え始めていた……のね」


 なんだか雨の想いに近づけている気がして、少しだけ涙が溢れそうになる。けれど、私はそれをグッと我慢した。
 これだけじゃ足りない。雨には繰り返して教えなきゃいけない感情がたくさんあるんだから、まだ泣いちゃいけない。


「怒りや悲しみ。その感情はとても大切な物だけど、もっともっと大事なものがある」
「……それは?」


 抱きしめた雨の体を離し、傘の外へ出ると彼女の赤い眼を見て私は笑顔を作った。
 これが私に教えられる一番大切な感情。雨が知らないことをたくさん教えていく。悲しいことばかりが続いた私の中にあるものは高が知れてるだろうけど、それでも私には考えがあるの。


「これからは楽しいことをしていこう? 雨といっぱい思い出を作って、いーっぱい! 遊ぶの!」


 その瞬間、雪が止み、空から私たちに光が差し込む。そして、辺り一帯に柔らかな風が吹きすさんだ。
 そう新しいことに二人で挑戦していく。二人でいれば、きっとどんなことでも楽しくなるはずだから。
 雨は目を瞑ったまま傘を畳み、風が吹く中、黒髪を耳にかける。
 赤いカチューシャと同じ赤い傘が似合う、セーラー服を着た少女は無表情の顔の奥に少しだけ不安な表情を消せずにいた。


「奏は……こんな私でも、連れて行ってくれるの?」
「雨だから連れていくんだよ」
「私はきっと奏を不幸にしてしまうわ……それでも?」
「私は不幸になんてならない。どんなことがあったとしても雨がいてくれるなら私は」


 私は首を横に振り、雨に手を伸ばした。
 どうかこの手を取って、雨。そうしたら私、雨の為にいくらでも頑張れるから。


「奏は本当に馬鹿よ……でも奏は、私を救ってくれた……」


 ゆっくりと雨は私の元へ近づいてくれて、


「……奏、聞いて欲しいの。私が秘密にしていた祝福の眼の力のことを……」


 祝福の眼、雨はそう言って私の手を握り返してくれたのだ。あの日、宮之城の屋敷の子ども部屋で見た、読めなかった資料と関係のあるものだった。


 §


 学校が終わり、家に帰り着くと雨は翻訳された資料を見せてくれる。そして入学式の後、二ヶ月間学校に来なかった理由を説明してくれた。


「じゃあ……雨が来なかったのは海外へ行ってその赤い眼の研究に携わっていたから? でも、資料を読む限りじゃただの目としかないよ」
「携わっていたわけじゃないわ、ただのモルモットみたいな物。実際は普通の目と変わりがないし、結局、研究もそうして打ち切られた」


 私は資料を読み進めていくがやっぱり特別なことは書いていない。雨の赤い眼は作られたものでもなさそう、先天性と書かれている。それなのにどうして、祝福の眼なんて名前がついたのかは疑問。


「普通の目とは違うから、とりあえず祝福の眼と名付けたようよ。でも、この眼は祝福という言葉とはかけ離れ、不気味と忌み嫌われた。皮肉よね」
「そんなこと……私は雨の目、綺麗で好きだよ……」


 そんなことしか言えない私のボキャブラリーに無い頭を恨む。他にいい言葉は言えないのかと悪態をつきそうなくらい。


「奏の言葉に救われているわ。奏くらいしか、そんなことを言ってくれた人はいないもの」


 それでも雨はそんな私に感謝の言葉を述べてくれる。真っ直ぐで、はっきりとした感想しか言えなかったけど今は助けられた。


「雨、その赤い眼には特別な力があるって言ってたけど」
「ええ、奏は信じてくれるかしら?」


 普通の人間には特別な力などは使えない。マジックだってタネがあって、それを知ればなんということもないんだから。もちろんそれを行うための努力はしなくちゃいけないけど、この世に説明がつけられないものはあり得ないのだ。


「人の運を上げる……それがこの祝福の眼に宿る、特別な力」


 冗談としか言えない雨の言葉。
 でも、雨は冗談では言っていないということがわかる。彼女は嘘なんてつかないのを知っているからこそ、逆に困惑してしまう。


「運を上げ……る?」
「信じられないのも無理はないわ。人の運は日々、変わっているもの」
「でも……その眼は普通の目と変わらないんでしょ? 特別な力って言われたって……」


 オカルト話だ。雨がそんな子だとは思わないけど、雨がどんなに嘘を言っていないとわかっていても、やっぱりそんな現象を頭では信じ切れない。


「奏に……私がその力を使っているから……」
「え……?」


 何を言っているのか理解が追いつかない。どこで、どうやって使われたのかすらわからないのだ。でも、雨はそれを教えてくれた。


「覚えているかしら……去年の奏が、私のアパートから帰りたいと言った時のことを」


 かろうじてだけど、その頃のことを思い出す。叔父からの電話に怯えて、私が帰る決断を出したのだ。
 その後、雨は――


「っ……私、雨の赤い眼を見つめてた……?」


 そう、赤い眼から目を離せなかった。あの時にその力をかけられたって言うの? そんな、まさか。


「その後、奏の身には現実に起こったはずよ。ある不幸なことが……」
「お義父さんが……死んだ……ことを言ってるの?」


 にわかには信じがたい、あれはただの急性アルコール中毒が原因での死だったはずだ。それがこの雨の眼が原因だと判断するには早計すぎる。


「それだけじゃないわ。どうして奏の危機が私にはわかるのか、それは貴女の運が私を引き寄せたから」
「そんな……じゃあ本当に……」


 信じてしまいそうになる。けど、それだけじゃただの虫の知らせだ。動物的勘がそれを伝えた……。
 馬鹿じゃないの⁉ そういう第六感的なのが不思議な力と言われているものでしょ! それじゃ、雨は本当にそんな力を持っているというの?


「そ……それじゃ、あやかが事故にあったのって」
「あの子の運を、奏の運が上回ったというだけのことよ……」


 私は脱力して、その場にへたり込んでしまう。そうなんだ、私があやかをあんな目に遭わせたということなんだね。


「私に近づくものは不幸になる……そう言われていたけど、それはあながち間違いではないの。私が奏に近づいたから、私のせいで奏を不幸にしてしまった、それが理由」


 馬鹿。そんなわけないよ、雨。これが不幸だって言うのなら、それは間違い。それらはすべて、私にとっての幸運だった。
 雨の祝福のおかげで私は嫌な人から遠ざけられた、叔父もあやかも、それの何が不幸だというんだろう。
 他の人の不幸を幸せだと、こう思ってしまうくらい私は壊れてるんだよ。でも、壊れていて良かった。その事象の原因、引き起こしたかもしれない雨を軽蔑なんてしないで済むんだから。


 雨を信じる、雨の祝福の力を私は信じられる。盲信してるわけじゃない。本当にその力は存在して、過去を振り返ればわかる。


 ギフトラッピングを買って、抽選券をたまたま貰ったのは運が良くて。子どもに抽選券をあげた時、私の運が残っていた影響で一等が当たって。
 クリスマスの日にレンジから取り出した朝食が熱くて手を離してしまった時、丸まっていたビニール袋が床に散らばっていたおかげでお皿を割らずに済んだ。


 今思えば、生きてきてそんな些細な幸運を連続で味わうことはなかった。
 その一つ一つは運が良かったで片付けられることかもしれないけど、雨の赤い眼の力が本当だとするのなら辻褄が合う。


「私は……ずっと、雨に助けられてきたんだね……今更そんなことで不幸だとか思えない」
「…………」
「やっぱり私は不幸なんかにならないよ。雨のおかげで運がやっと向いてきたんだって考えたら、ここはありがとうって言うのが適切だと思う」


 そういうと、雨は俯いて体を震わせ始めた。


「話したら軽蔑されると思ってた。この力を使って奏を、不幸にしてしまったんじゃないかって……こんな私を、奏は許してくれるの? 一緒にいてもいいの……?」


 もう、雨……また泣いてるの? 随分と泣き虫になっちゃって、仕方ない子だな。
 内心でそう思いながらも私は笑顔を作り、彼女を優しく抱きしめてあげる。


「軽蔑なんてしないよ。軽蔑どころか、雨ってすっごい人だったんだって驚いてるくらい。ふふふ……そんな子に私が胸を貸してあげるの!」


 過去に言ったこと、こんなに早く雨を甘えさせられる日が来るなんて思ってもみなかった。これは雨がくれた幸運で起こったことなのかもしれないけど、自分の力で勝ち取ったものでもあるんだって嬉しくも思う。
 どんな幸運を持ってようが、行動しないことにはそれは訪れないってわかっているから。


「私も雨に一緒にいてほしい。私の最高の友人として、側にいてほしい」
「ええ……約束するわ……死がふたりを分かつまで――」
「ううん、死んでもずっと一緒だよ」


 なーんてと私は笑い始める。


 雨もまた、死ぬ前に結婚式には呼んでよね? なんて冗談を言ってくれるが、結婚式を挙げるどころか彼氏を作る予定もない。
 正直なところ感情を取り戻していく雨の姿はとても可愛くて、結婚は雨の方が先になるんじゃないかとまで思ってしまう。
 その時はたくさんお祝いしてあげたい。それまでには笑えるようにしてあげないと……。
 私はまた一つ、雨のことを知って、雨の為に思い出を作り続けたいと思うのであった。
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