君のブレスが切れるまで

第53話 愛

「そう、奏はあの花壇の花のことを知ったのね」


 雨には聞いてみたかった話があったのだ、それは雨の実家に咲く花のこと。


「勿忘草と彼岸花、どうしてあの二つの花が好きなの?」
「それは……やっぱり花言葉が好きだからかしら」


 花言葉。
 花にはどれも花言葉がついているらしいけど、私自身、調べることはなかった。ただ、その花の名前をわかるだけでいいと思っていたから。
 でも、その言葉が雨の口から出ると興味を持ってしまうのは、どうしてなんだろうね。


「どんな花言葉なの?」
「勿忘草は『私を忘れないで』。彼岸花はいろいろあるけど『再会』が好き」


 そう教えてくれる。
 総一朗さんから、小さい頃の雨がその二種類の花を大事にしていたと聞いていた。もしかして、雨は――


「小さい頃の私に込めた、言葉だったの?」
「……そうね。忘れてほしくなかったし……再会を望んでいたわ」


 そっか、そっか……。
 雨は私が考えているより長い時間を、一人で過ごしていたんだよね。


「私は雨のことを忘れちゃってた……高校で初めて会った日も」
「けれど、奏はちゃんと思い出してくれたじゃない? 私はそれで十分嬉しかったわ」


 それどころか思い出させてやると意気込んでいたんだとか。そんな雨の裏話に私は自然と頬が緩んでしまった。


「良かった。奏……ずっと笑わなかったから」


 そう言われ、ハッと口を塞ぐ。私が笑っていた? 雨がいなくなって、笑うことなんてできなかったはずなのに。
 でも、今なら何となくわかる。


「雨が私の笑顔を持っていっちゃってたんだよ。責任とって、もっと笑わせて」
「そ、それは困ったわね……急に面白いことやれって言われてる気分よ」
「ぷっ……あはは! そうだよー? だってそう言ってるんだもん!」
「も、もう……奏……あまりからかわないで」


 ちょっとだけ拗ねてしまう雨がすごく可愛かった。まるで、本当に五年前へ戻ったように。


「そういえば、今日って私の誕生日なんだよ? 雨、知ってた?」
「そうなの? そうとは言われても、実感が湧かないわね……私の感覚でいうと今日は私の誕生日だもの」
「あ、そ、そっか……。じゃあ二人の誕生日っていうことで!」
「無理矢理がすぎるわよ? でも、それもいいかもしれないわね……」


 誕生日プレゼントはないけど、二人でお祝いをする。私は雨へ、雨は私へ。
 あの日、ちゃんとできなかったから。今度こそちゃんとお祝いすることができて本当によかった。ケーキはないけど、気持ちさえあれば私は嬉しい。雨もそう思ってくれていたらいいけど。


「そう。もう二十二歳なのね……随分お姉さんだわ」
「奏お姉ちゃんって言ってもいいんだよ? えへへー」
「お姉ちゃんは『えへへー』なんて、笑わないのよ? 凛としているからこそ――」
「あーはいはい。私の方が年上なんですから、雨はお説教禁止。ちゃんとお姉ちゃんって言ってね?」
「……仕方ないわね。奏お姉ちゃんの為なら、私はなんでもしてあげるわ」


 サラリと言われた⁉ あんまりにも唐突だったので、もう一度を要求したい!


「ダメよ」
「なんでもしてあげるって言った矢先それ⁉ というか、なんで私の心を読んでるかなぁ……。私もできるはずなのに、雨のことは全くわからないんだけど」
「だって、勘ですもの。いや、そもそも奏がわかりやすいのがいけないわ」
「えええええ⁉ そ、そんなにわかりやすいかなぁ……私……」


 バッサリ言われた。五年も経ってわかりやすいって私、どれだけ成長してないの。いや、成長してないかもしれないんだけどさ。


「……!」
「ん……雨、どうかした?」
「い、いえ……何も」


 雨はすぐに視線を逸したように見えたけど、窓を……見ていたのかな? もう外は真っ暗だ。天気が悪くて、今にも降りそう。
 ゴロゴロという音が空から聞こえ、なぜだか私は不安になり雨に聞いてみた。


「ねぇ……もし雷で停電なんてしたら、雨はどうなるの?」
「……それは」


 チラリとホームシアターの方を見る雨、だけど、すぐに視線を逸した。
 いや、さっき、雨が見ていたのは窓なんかじゃない。恐らく、ホームシアター……再生機だ。
 気づけば、雨はいろいろなタイミングであの再生機に目を配っていた。ほんの一瞬だけ、目を留めていた気がする。
 私はソファから立ち上がると、再生機の方へ歩を進めた。


「本当なら早く言うべきだった。私は奏の優しさに甘えてるだけの愚か者なのよ……」


 再生機に手を触れてみると、


「熱っ……」


 とても熱い。特に記憶装置の方はもう手で触れられないくらいの熱さ。雨のセリフとかけ合わせれば、もう雨がこの場所にいる時間はそう残されていないんだろう。


「ねぇ、雨。雨はまた私のところからいなくなっちゃうの?」


 口ごもる雨、こんな雨をほとんど私は見たことがない。本当にそういうこと……なの?


「なんとか言ってよ、雨」
「……その記憶装置には研究で使用されていた特殊な回路が使われているの。規格外の容量に人の人格と記憶を定着させる回路、でも不具合が見つかって世間に出ることは叶わなかった」
「だから……何なの」


 小難しいことを言われても、私にはわからない。
 ううん、違う。わかっているのにわかろうとしていないんだ。脳が考えることを拒否しているかのように。


「誰もが望んで望み続けた、亡くなった人を『生き返らせたい』という願いを、ミヤノジョウグループは文字通り『記憶の再生』として創ろうとしていた。そんな未来の産物」
「……未来の」
「ええ。けれど、生き返らせると称された『記憶の再生』には大きな欠陥があった。人の心を機械に封じ込めることは成功したけど、記憶装置に原因不明の発熱が起こるという現象」


 だから、こんなに熱い……の? 
 そんなのはどうだっていい、たとえ火傷したって雨がまだこの場にいられるというなら、私は今すぐにでも記憶装置を再生機から抜き出せる。でも、もうわかってた。それが雨と一緒にいる時間を減らす行為だっていうことも。


「抜き出しても延命することは、できないん……だよね……」
「……一度停止すれば、二度目の起動は叶わないでしょうね。そして、このまま電源を入れていても回路は既に焼き切れを起こしている。正直、よく保ったものよ」



 こんなところまで来て、私は逃げようとしてる。
 ……雨が現れてから、こうなるって知っていたはずなのに。
 嫌な予感はしていた、記憶装置を入れると選択したときから必ず後悔するとわかっていたのに、いざ告げられるとやっぱり辛い。


「言えば、奏にもう一度恨まれてしまうんじゃないかって怖かった。今日だって恨んでると言われて心臓が止まりそうだったの。生きてすらいない、ただのデータなのに私は怯えてしまった、逃げてしまっていたの。タイムリミットからは逃げられるはずがないのに。言うのが遅れれば、奏をもっと傷つけることになるのに」


 雨の赤い眼からも光を纏う涙がこぼれ落ちる。それに連動するよう、外もポツポツと黒い雨粒が降り注いでいく。


「いつ言われたってそんなの傷つく度合いは同じ。恨まれても雨は仕方ないはずでしょ……」


 吐き出すように黒い感情が出ていく。それに対して雨は――


「……そう……だけど。そうかもしれないけど! じゃあ、奏は私の気持ちを少しだって考えてくれたことはある⁉」


 唐突に言われるセリフは私の胸へと突き刺さった。
 雨の気持ち、私は雨に押し付けるだけで雨がわかってくれるからって、全てを押し付けてなかっただろうか?
 でも、考えていなかったといえば誤りのはず。


「あるよ……だって、プレゼントとか――」
「そんなんじゃない! 私だって……私だって死にたくなかったのよ!」
「じゃあ……じゃあ、私を見殺しにしたら良かったじゃない!」


 完全に売り言葉に買い言葉。こんなセリフ、言うつもりなかったのに、どうして。


「っ……どうして、わかってくれないの? そんなことできるわけないって知っているくせに、どうして奏は私の気持ちを汲み取ってくれないの? 同じ気持ちだと思っていたのよ……?」


 知ってる、知ってるんだよ。雨の気持ち、わかってるはずなのに……どうして私はこんなに感情的になってるの。


「私は、奏とずっと一緒に生きていたかった! この先もずっと。たとえいつか離れてしまったとしても同じ世界で生きていたかった! けど私は死んで、貴女の側からいなくなって、恨まれても仕方ないかもしれないわ⁉ でも! ……でも、奏から恨まれるなんて嫌よ。私を追って、奏が死ぬことを選び続けるのはもっと嫌」
「そんなの私の勝手でしょ! 私は……私は……」


 あれ、おかしい。雨に黒い感情をぶつけて、私は死んでどうするつもりなの? 何のために死にたかったの? 雨のいないこの世界に絶望して、今、目の前にいる雨を傷つけて、私は死んでから何がしたいの? 雨に会いたかったんじゃないの?
 私は続く言葉を何も伝えられなかった、自分だけの感情をぶつけて大事なことを忘れていたから。
 金色の眼に映った、彼女の長い黒髪が揺れる。俯いた雨が胸を押さえて、切なそうに顔を歪めてる。悲しそうにしている。
 なんでかなぁ、私。馬鹿だな、私。
 雨の笑顔を求めてずっと頑張ってきたつもりだったのに、雨にこんな顔をさせちゃってる。


「私……奏のこと大嫌いだわ……わかってくれてると思ってたのに、わかってくれない奏なんて、嫌い。嫌い! 大嫌いよ!」


 雨の言葉が聞こえる。『私のことを嫌いになって』って、そう言っている気がした。
 そうすれば、私が雨の幻影を探さなくなるとでも思ってるの……?
 馬鹿……雨の馬鹿。私の馬鹿。そんなことできるはずないって雨だってわかってるくせに、私だって逃げ続けた大馬鹿なんだよ。
 雨の気持ちはちゃんとわかってたはずなのに、なんで傷つけることばかり言うかな。二十二歳にもなって、まだまだダメな子だ。雨と喧嘩したって何の意味もないのに。時間はほとんど残されてないのに、また後悔を繰り返すの?


 ああ……そっか、そうだ。私はもうすぐ雨と会えなくなるのが嫌で仕方ないんだ。焦りがあんな言葉を生んだ、引き留めようと雨を感情的にさせた。引き留められるわけなんかないのに。雨だって焦っているはずなのに……!
 私は首を横に振ると雨の前に座り込む。伝えなきゃ、雨に。今度はちゃんと、あの日教えられなかった言葉を。


「雨……ごめんね」
「何を……今更……」


 途端に私の中で一つの疑問が解ける。


「雨の声、私には聞こえたよ。だからごめん、私は本当にお馬鹿だからさ、雨がいないと全然ダメなんだぁ……。ずっと、ずっとね? 雨がいなくなった後も雨のことを探して、雨の背中を追ってた。でも、やっぱり違う世界に行っちゃった雨には追いつけなくて、置いてかれて、辛くて、逃げて、時間が経ちすぎて……捻くれちゃったんだよ」


 ああ、そうなんだ。そうだったんだ。


「ねぇ、雨……聞いて欲しいことがあるの」


 私が死ねない理由がはっきりした。


「ずっと、ずっと雨に言いたくて、言えなかったこと」


 それは心が死んでるからでもなくて、雨が私に祝福をかけたせいでもない。やっと、やっと気づいたの。


「教えて……?」


 雨の声と共にパチンと弾ける音が、再生機の方から聞こえ始めてきた。
 もう時間が少ない。でも、大丈夫。落ち着いて言えば、間に合う。


 ――私の運、今だけ繋ぎ止めて。雨と私を、この時だけは繋ぎ止めておいて。


 すぅ、はぁ……と三度の深呼吸をして、私は雨へと向き直る。座っている雨の目はすごく潤んでいて、今にも涙を零しそうだ。
 私が傷つけちゃったから、私が余計なことを言ったから、雨は悲しんじゃった。
 だから、その涙を拭うために私は言わなくちゃいけないんだ。今度こそ、後悔しないように。
 その瞬間、私の眼がジリジリと熱くなっていく気がした。まるで炎を帯びたように熱く、燃え上がるかのような……。
 そう。使えなかったはずの祝福の眼が、今ようやく発動している気がした。


「……どんなに雨が私のことを嫌いになったとしても、私は雨のことが大好きだよ。世界中の誰よりも、私は雨のことを愛してる」


 これは雨が最期に言ってくれた言葉と同じ、純粋な愛。その言葉と共に、私はこの眼に宿る力を……祝福を雨に掛けていく。この世界で救ってくれた雨のことを、私は心から愛していたから。
 同時に死ねない理由を、そして生きていく理由を、私は忘れないようにもう一度胸に刻み込んでいく。
 私が死ねない理由、それは呪いなんかじゃなかった。
 願っていたんだよ、私はずっと。雨が大好きだから。


 ――『雨の為に生きたい』って。


 雨はとても綺麗な赤い眼を涙で潤ませ、唇を噛み締めながら、私へと抱きついてきた。


「っ……大嫌いなわけないわ! 言った時からずっと、おかしくなりそうなほど胸が痛かった! ごめん、ごめんなさい! 奏、私はやっぱり――」


 私の体にぶつかる質量、髪の香り、吐息、その全てを私は感じることができた。
 そう、今ここにいる雨はまるで本当の雨のようで。
 ううん――


「奏のことが大好きよ。愛をくれた貴女を、心の底から愛しているわ……」


 純粋な愛と共に告げてくれる。
 それは……これ以上ない最高の、満面の笑顔を見せてくれた私の友人、大好きな雨だった。
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