不倫


 秋子は、ダイニングテーブルの椅子に浅く腰掛け、らしくもなく脚を組んでいた。テーブルの上には、2枚の葉書が置かれているが、それは切り離された往復葉書であった。左側に置かれた往信用には、裏面に大学の同窓会が催される諭旨が書かれている。今、返信用葉書にボールペンの先を落とし、彼女は迷うことなく、「御出席」を大きくはっきりと〇で囲んだ。夫に対しては迷った振りをしていれば良い、と思いながら、丁寧に、「御」を2本の線で消した。自分の住所と名前、( )をして旧姓を書き、卒業年度と学科を書いた。通信欄には何も書かず、空欄のままにしておいた。参加人数把握のため、開催日の2週間前に着くように投函しなくてはいけない。今日にも出さなくてはいけない。
 三浦秋子は、この夏、結婚して丸2年になる。既に1人居る子どもは1歳半だが、それは決して珍しいケースではない。身重の新婚生活は、彼女にとって少しも苦ではなかった。社会的な面では。
 先日この葉書が届いた時、秋子は迷いつつお願いする風を装って、行きたい旨を夫に話してみた。夫はだめだとは言わなかった。ただ、沙世子はどうする、とだけ言った。秋子は即座に、あなたのお母さんにみてもらうわ、と答えた。夫はそれ以上何も言わない。遠い開催地までの旅費が、往復で2万近くかかることも、会費が6千円であることも、少し口を歪めただけで、良いとも悪いとも言わなかった。秋子はわざと陽気にはしゃいで見せた。嬉しいわ、と言いながら夫に抱き付いたりもした。実は同窓会の為ではなく、別の目的で仙台まで行くのだなどと、夫は知る筈は無く、言うべきものでも無かった。
 夫はおとなしく真面目で、何1つ悪い事をしない。必要悪というものさえ知らない。結局それが結婚に結びついてしまったのだが、秋子の母親は、結婚相手としては申し分のない男だからと、暗に夫の人間的な味の無さを非難しつつ、結婚を認めてくれた。傍目には平和で幸福で、貧しくもなく贅沢でもない普通の生活が淡々と2年続いた。婚期を逸した友人たちからは羨ましがられたが、その度に彼女は、実は別れたいのよ、と告白した。
 夫婦の諍いが全く無かったわけではない。身重でいる間は、秋子は体が思うように動かないイライラからヒステリックになり、夫に八つ当たりすることもあった。夫は優しく彼女を宥めるが、彼女にとっては表面上取り繕っているようにしか聞こえなかった。夫の意見には何の説得力も無かった。秋子は宥め透かされた振りをして呆れるしかなかった。産後は育児ノイローゼになりかかり、反応の遅い夫が腹立たしくてならなかった。最終的には秋子の我儘から生じた不満であると、彼女は思うことにした。そうでもしなければ、秋子1人が破壊的な言動をしていることになってしまうからだ。だが、本当は、無趣味で向上性に欠ける夫と、知識欲に富み、行動的な秋子との価値観の違いから起こるすれ違いであることに、秋子は気付きつつあり、自分をみつめようとしなに夫には思いもよらないことであった。
 心が痛い、裏切りだ、夫に対してはもちろんだが、子どもに対して。愛していない夫になど、何の罪も感じないが、愛しく無邪気な子どもに対して、彼女は不義を働いている。だが、そのうち、離婚という最も大きな不孝でこの子の小さな心を傷付けるのだ、と彼女は心なしか重い葉書をポストに落としながら思った。
 その日の夕方、残業で遅くなると夫から連絡があったので、秋子は子どもを寝かし付け、自分もあとは寝るだけというところまで準備をしてから電話をかけた。
 電話の相手は沢田純也、大学時代のサークルの先輩だ。先輩とは言え、彼は2年留年しているので、卒業は同年になってしまった。外車専門のディーラーだ。
 沢田はすぐに電話に出、秋子が、わたし、と言うと納得したように、ああ、と言った。
「行くことにしたの」
 寂しそうに言う秋子の心中を察して、沢田は短く軽く、
「それは楽しい」
 と言った。
「待ち合わせの場所を決めましょうよ」
「そうだね」
 2ヶ月に一度、会えるか会えないかのどうしようもなくまどろっこしい関係は、沢田から秋子への再会を望む手紙で半年程前から始まった。今回仙台に行くのを含めても三度目にしかならない。もちろんこれは、秋子の結婚後という意味であって、2人の深い関係は新しいものではない。
 沢田と会う度に嘘を付いて家を出て来るわけだが、幸いにも三度ともチャンスに恵まれた。一度目は友人の結婚式。午後から始まる披露宴に顔を出し、二次会は出席せずに沢田と会った。二度目はサークルのOB会。沢田は欠席したが、秋子は一次会を途中で抜け出し、沢田と待ち合わせた。
 どれも最終に近い電車で帰って来たが、夫は全く疑わなかった。大学出とはこういうものだと思っているらしい。夫は大学に行っていないし、独り暮らしの経験も無い。田舎から出て来て、独りで暮らした秋子とは根本的に生活に対する考え方が違う。
 価値観の違いはそこここに顕れる。当然のことだ。
 東西線の東の端近くに住む秋子と、西の端に住む沢田が秘密裏に出会うのは、沢田の勤務先に近い都心のホテルであった。不倫な関係を惨めに感じないようにと、彼は決してラブホテルを選ばない。
 理知的で情熱的な沢田を秋子は情事の相手とし、利発でどこか悪女めいた秋子を沢田は愛人として、お互いに適当な距離を保っている。秋子は夫と子どもを愛し、沢田は婚約者を愛するという仮の姿を崩そうとはしない。
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