拾われたパティシエールは愛に飢えた御曹司の無自覚な溺愛にお手上げです。

「菱沼、今日はここまででいい。荷物も俺が持つ」
「……いいえ、そういうわけには」
「察しろ」
「ーーッ!? ……あぁ、はい。そうでございますねぇ。私《わたくし》としたことが失礼いたしました。上手くいったようで良かったですねぇ」
「……上手く……いったん、だよな」
「創様?」
「もういいからさっさと自分の部屋に入れ」
「はっ、はい。それではこれにて失礼いたします。どうぞごゆっくりお休みになってくださいねぇ」

 ようやく定時を迎え、いつものようにマンションに帰り着いた俺は、これまで同様にリビングまで手荷物を運び込もうとする菱沼をやんわりと制し、部屋の前で菱沼と別れた。

 これまで女を遠ざけていた俺のあからさまな言葉が意外だったのか、いつも冷静沈着な、あの菱沼が、一瞬面食らっていたようだ。

 ……が、昨日から菜々子に対する俺の変わりようを思い出したのか、不意に漏らしてしまった俺の呟きを気にしてもいたが、すぐににんまりとした含み笑いを浮かべていたようだった。

 といっても、子供の頃からの付き合いであるため、どうにも気恥ずかしさが邪魔をして、菱沼の方をまともに窺うような余裕などなかったけれど。

 おそらく菱沼は気づいているはずだ。俺にとって菜々子がどんなに大事かってことを。

 だからこれまで同様に、何も言わず見守ってくれようとしてくれているんだろう。

 いつになく嬉しそうに語尾を伸ばした菱沼に、僅かに居心地悪さを覚えつつも、それよりなにより、一刻も早く菜々子に会いたくてしょうがなかった。

 既に菱沼がインターフォンで菜々子に知らせてくれているため、扉の向こうに菜々子がいるのだと思うと、それだけで憂鬱だった気持ちが浮上する。

 逸る気持ちを抑えつつドアを開けると、予想していたとおり、こうするのが当然のことのように、黒いコックコートに身を包んだ菜々子がそこに居て。

「お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした」
 
 いつものにこやかな笑顔で出迎えてくれた。

 今日はあの男のお陰で仕事の時以上の疲労感に苛まれていたのが嘘だったかのように、瞬時に憂いもろとも霧散してしまっていて。

「ーーえっ!? ちょっ、あのっ、創さんッ?!」

 えらく必死な様子でそう訴えかけてきた菜々子の、その声で初めて、自分が菜々子のことを正面から抱き竦めていることに気づくこととなった。
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