前の野原でつぐみが鳴いた
 席で会計を済ませて店を出る。エレベーターホールにはほかに誰もいない。ボタンを押して、エレベーターの到着を待つ。
 まだ少し揺れている鹿乃江を横目に見て、紫輝が被っていたキャップを鹿乃江の頭に乗せ、上から優しく押さえて被せた。
「?」
「…そんな無防備な顔、オレ以外のやつに見せないで欲しいんで…」
 照れくさそうに前を向いたまま指で髪をほぐし、紫輝がぽつりと言った。
「…おかりします…」
 うつむく鹿乃江の上気した頬に触れたくて仕方ないが、酔っているところに付け入るようなことはしたくなくて、紫輝はなるべく鹿乃江を見ないようにする。しかし、なにかから守るように一定の近さで寄り添っている。
 かごの到着を知らせるランプが点くと、中から人が出て来た時に備えて紫輝が鹿乃江を背中に隠した。
 ドアが開くとサラリーマンと思しき数名が会話をしながら降りてきて、二人には目もくれず店に入っていく。その集団をやり過ごしてエレベーターに乗り込んだ紫輝が開ボタンを押して待つ。
 一瞬ためらって、鹿乃江が歩を進めた。
 小さな個室に二人きり。
 少し気まずくて、少し甘い沈黙の空間。
 瞬間、様々なことが頭をよぎるが、それは一分足らずで終わってしまう。
 エレベーターを降りビルを出た少し先に、店を出る前に紫輝がアプリで呼んだタクシーが停まっていた。
「ごめんなさい。ちょっと急用ができたので、送って行けなくなりました」
 理性を抑えられる自信を失くした紫輝は、そんな嘘をついた。
「そうですか。おいそがしいなかありがとうございました」
 鹿乃江がゆっくり頭を下げる。
「心配なので、家に着いたらメッセください」
 帽子の中を覗き込んで、紫輝がまっすぐに見つめる。
「はい」
「それじゃ…また」
「はい……」
 鹿乃江がタクシーに乗り込むと、ゆっくりドアが閉まる。自宅近くの住所を伝えると、運転手はそれをカーナビに打ち込んで発車した。
 紫輝は、タクシーが見えなくなるまでその場にたたずみ、鹿乃江を見送った。

 店から少し離れ、タクシーが繁華街に入る。雑踏を行きかう人の流れを見ながら、鹿乃江は飲酒の余韻を感じていた。しかし、ほろ酔い気分は醒めつつある。
 店から自宅まではスムーズに行って3~40分程度だ。車酔いもさることながら支払いが心配になり、クレカが使えるかを運転手に確認した。しかし、アプリで予約した人が登録済みの方法で支払うシステムらしい。
(電車で帰るって言えばよかった……)
「少し、窓を開けていいですか?」
「どーぞどーぞ」
 運転手が快く受け入れてくれたので、窓を細く開ける。夜風が気持ちいい。
 頭を冷やして紫輝の行動を思い返そうとするが、うまく考えがまとまらない。
 アルコールのせいでうつらうつらしていると、見覚えのある景色が近付いてきた。窓を閉めて降りる準備をする。
「ご住所だとこのあたりなんですけどー」
「あ、はい。ここで大丈夫です。ありがとうございます」
 家から徒歩5分程度の大通りでタクシーを降りた。風に当たりながらゆっくりと歩く。
 酔ってはいたが、酩酊はしていない。むしろ記憶はハッキリしている。
 次第に覚醒する脳内では、先ほどまでの光景が何度もリピートされていた。
 鍵を開けて靴を脱ぎ、家の中でキャップを脱いであっと気付く。
(返しそびれた…)
 タクシー代もそこそこの額になっていた。なにをいつどうやって返そうかと考える。その気がかりと一緒に、店内での出来事がグルグルと回る。
(手…指……あれなんだったの……?)
 自分のものとは違う体温が、紫輝の指の形に残っている気がする。
(急用……って、あれたぶん……言い訳、だよね……)
 手に持った紫輝のキャップを眺めながら、別れ際の紫輝を思い出す。様子がおかしいように見えたのは、アルコールのせいなのか、それとも……。
(そうだ…メッセ……)
 バッグの中からスマホを取り出し、アプリを立ち上げて個別ルームに入る。

『先ほどはありがとうございました。無事帰宅しました。』

 タクシー代がどうのとかまだるっこしいことを書きたくなくて、しかしなにも書かないのもためらわれて。酔いが醒めた頭で二の句を考えていると、送信したメッセに既読が付いた。しかし、いつもなら早めに来る返信がしばらく待ってみても来ない。
 なんとなく居心地が悪くて、おやすみなさい、と打って、送信できずに消した。
(……嫌われちゃったかな)
 思いがけず気持ちが落ち込み、自分で自分の感情に戸惑う。
(なんかもう、わかんないや……)
 アプリを閉じて、けだるい体で部屋着に着替える。
(トイレ…あと、メイク落とす…)
 逐一考えながら行動する。そうでもしないと床に突っ伏してしまいそうだ。
 長く吐いた息が熱い。
(あした、やすみでよかった……)
 ベッドに横たわり電気を消す。
(まえはらさんは…なにをかんがえて、いたんだろう……)
 紫輝のことを考えながら、鹿乃江は眠りについた。

* * *
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