幸 –YUKI–
会社を出てすぐに、私はスマホを取り出した。
私の連絡先には、優奈も西川くんも田中くんの名前もない。それでもただ1人、新井聡美の名前がそこにあった。

すぐにタップして、電話をしようと通話ボタンを押そうとして、私は動きを止めた。

『この先、私は幸乃と関わることはないと思う。』

高校の卒業式で言われた言葉が思い出されて、深く胸に突き刺さる。

全てがなかったことになっている。
それならば、彼女と仲良くなれた事実はここにはない。

手が震えた。
怖かった。なんて言って良いのかが分からない。

震える手で電源を消して、そっとポケットにスマホをしまった。

私は結局、変わることなんて出来ない。

「っ…。」

違う。
このままじゃ前と同じだ。
変わりたいと願っても変われずに、立ち止まって泣いていた前の私と同じ。

何のために私は過去に戻った。
無意味なんかじゃない。
私は変われた。これからだって変われる。

しまったスマホを取り出して、もう一度電源ボタンを押した。

「…大丈夫…。」

深呼吸をして、通話ボタンをタップしようとした、その時だった。

「沢村…さん?」

押そうとした指が、また動きを止める。

聞こえた声を、私は知っている。
ついこの間まで、よく耳にしていた優しい声音。
ゆっくりとそちらに振り返れば、その人物に目を見開いた。

「やっぱり!沢村さんだ!あ…私のこと覚えてる…?高校の時同じクラスだった長月。長月優奈。」

優しい笑みを浮かべてこちらに歩みを寄ってきたのは、私の知っている優奈だった。
少し大人になって、可愛らしさの増した彼女の笑顔は、何も変わっていない。

「うん…。覚えてる…。」

発した声は少しだけ震えていた。
彼女と出会えたことが、嬉しくて泣きそうになる。でもその中には、若干悲しみも入り交じっていた。
彼女の記憶の中には、私と過ごした思い出は何もない。それは彼女が私を“沢村さん”と呼んでいることが何よりの証拠で。
それでも、嬉しかった。
私を覚えていてくれたのが。
こうして、出会えたことが。

涙を必死に堪えながら、私は久しぶりと言って笑った。

「…何か…沢村さん雰囲気変わったね。」

「え…?」

「あー…表情が柔らかくなったって…感じがする。」

ふふっと笑う彼女に、そうかなと私も笑みを溢す。

あなたのお陰だよと、心の中で呟く。
あなたに出会えたから私は変われた、と。

「沢村さん仕事の帰り?」

「あ…うん。丁度終わった。」

「そうなんだ!私はバイトの帰り。あ、私大学行ってるんだ。」

絵を描いてるの。初めてそれを話してくれた時のように、優奈はどこか照れくさそうにそう口にした。

彼女のあの2枚の絵を思い出す。
あれはどうなったのだろうか。
過去に戻る前の彼女を、私は知らない。

「どんな絵を描いてるの?」

彼女は今、どんな絵を描くのだろうか。

優奈は優しい笑顔を見せると、持っていた鞄からスケッチブックを取り出した。

「今丁度描いてるのが、結構うまくいきそうでね。」

パラパラと捲りながらそれを見つけて、彼女ははいと言ってそれをこちらに差し出した。

「え…」

その絵に目を見開いた。

なんで…ここに…?

あるはずはない。あの絵は、私が渡した“炎舞”の本を元にして描かれた絵のはず。

そこには、私が戻った過去に彼女が描いた“舞”の絵があった。

「これはラフ絵なんだけどね。大きい紙に描くの。これ実は、見本にした本があって」

「えん…ぶ…?」

そう呟けば、彼女は目を見開いて頷いた。

「すごい!分かるんだ!沢村さんよく本読んでたもんね!」

私が本を読んでいたということを知っていたのにも驚いたが、何よりも、本を一切読まないと言っていた彼女があの分厚い本を読んでいる事が意外だった。

唖然としている私に、彼女はあ!と声を上げた。

「この間、びっくりすることが起きたの!」

興奮ぎみでそう口にする彼女に首を傾げる。

「私、本は苦手で一切読まないし、買わないの。それは両親もなんだけど。でもこの間、“炎舞”って本が私の机に置いてあったの。私は買ってないし、両親も知らないって言うし。友達とかにも聞いたんだけど知らないって言われて。付箋も貼ってあるし、絶対誰かのなんだけど、誰も知らなくて。試しにその付箋のところ読んでみたら、なんか自分の中で絵が浮かんで。私、これ描かなきゃ駄目だ!って思って、気付いたらこの絵を描いてた。」

不思議だよね、と優奈は笑った。

「なんか分からないけど、“炎舞”の本、自分のもののような気がして。誰かに貰ったような感じがしちゃって…。このまま持ち主見付からなかったら、貰っちゃおうかなって思ってる。」

笑みを溢す彼女に、そうなんだと泣きそうになるのを堪えながら呟いた。

何かが、変わっているのかもしれない。
ふとそんなことを思った。

『おねーさんが作った縁は消えないから。』

私が作った縁が、こうして繋いでくれたのだろうか。

「あ!ごめん!」

ふと声を上げた彼女はポケットからスマホを取り出すと、手早く操作をしてそれを耳にあてがった。

「もしもし。…うん、もうすぐ着く。…うん、大丈夫だよ。ありがとう。…うん、また。」

電話を終えた彼女を見て、ふと彼女の恋人の桐島さんが浮かんで、思わず彼氏?と聞けば、優奈は照れくさそうに笑った。

「うん…。中学校の頃から付き合ってて…すごくいい人なんだ。」

優しく笑う彼女が、私の記憶に残る桐島さんの笑顔と重なる。

「そうなんだ。いい人に会えたね。」

うんと嬉しそうに彼女は頷くと、あ!と急に声を上げた。

「連絡先、交換しよう!」

その言葉に一瞬目を見開いて、すぐに頷いた。

急いでスマホを取り出して、彼女と連絡先を交換する。
先程まで無かった彼女の名前がそこにあって、自然と笑みが溢れる。

「よし!完了。……ねぇ、幸乃ちゃんって呼んでも良い?」

その言葉に、胸がどきんと高鳴った。

『幸乃。』

そう呼んでくれた彼女の声が蘇って、私は首を横に振った。

「幸乃で良いよ。私も、優奈って呼んでいい?」

一瞬目を見開いた優奈が、すぐに優しい笑みを浮かべてうんと頷く。

「よらしくね、幸乃。」

「こちらこそ、優奈。」

2人で微笑み合えば、記憶に残る彼女と目の前の彼女が重なる。

「…なんか…不思議…。ずっと前からこんな感じだったように思う…。」

そう口にした優奈に、目を見開いた。

けれどすぐに、そうだねと口にして笑みをこぼす。

「ふふ…。実はさ、高校の時、ずっと幸乃と仲良くなりたかったんだ。」

「え?」

「話し掛けようとしてもうまく話し掛けられなくて…。話し掛けても、友達なろうとか言えなくて…駄目だった…。」

初めて知る事実に、驚きを隠すことが出来ずに呆然と彼女を見つめた。

「私ね…ずっと幸乃にお礼が言いたかったの…。私、幸乃に救われたから。」

私に、救われた…?
訳が分からずに固まっていれば、彼女は笑みをこぼして続けた。

「うちの高校、有名な美術の先生がいたでしょ?私その人に習いたくてそこの高校入ったの。でも、うまくいかなくて。何を描いたら良いのかが分からなかった。コンクールに出しても、特に誰かに評価される訳でもなくて。スランプになった。その時、どうかな?って周りに聞いても、上手だねとかしか言ってもらえなくて…。有り難いんだけど、これで良いのかなって…悩んだときがあった。でも、1年生の時の文化祭で、絵を展示したとき、幸乃が私の絵を見てたの。それ見て、優しい絵、綺麗って言ってくれた。」

ふと、遠い記憶のなか、自分が絵を見ていたことを思い出した。
人混みを避けて、美術室に足を運んで絵を見ていた。
絵のことなんて分からなかったけど、1枚だけすごく優しくて綺麗な絵があったのを思い出す。
3年間、私はただ1枚の絵にだけ惹かれていた。もしかしてその絵は全て…

「そう言ってくれたのが嬉しかった。純粋に私の絵を見てそう言ってくれたのが。それで、勇気が持てた。私の絵を見てくれる人がいるって。2年、3年、幸乃は私の絵の前では立ち止まってくれて、必ず綺麗って言ってくれてた。名前も書いてないのに、いつも私の絵の前で。嬉しくてね、泣いちゃった。本当にありがとう。本当に救われた。」

「…何も…してないよ…。」

頭を下げる彼女にそう言えば、彼女は顔を上げてそんなことないと首を振った。

「それでも私は嬉しかったんだ。幸乃にとっては何気ないことでも、私にとっては大きなことだった。ありがとう。」

優しく笑う彼女に、私も笑みを溢した。

人を救ってたなんて、到底思えないけど。
それでもそう言ってくれた彼女を否定したくはなかった。

初めて、自分の今までの過去に意味があったのだと、そう思えた。

それから、近いうちに会うことを約束して、優奈は駅の方へ行ってしまった。
その後ろ姿を、私は見えなくなるまで見つめた。

「よし。」

そっとポケットからスマホを取り出して、聡美の連絡先を見つけて、迷わずに通話ボタンをタップした。

プルル…。無機質な機械音が耳に響く。
鼓動は加速していて、それでもこの緊張がなんだか嫌には思えなかった。

『もしもし。』

不意に聞こえた声に息を呑んでから、急いでもしもしと口にする。

「あ…さ、聡美…?」

何を話そうかも決めていなかったことに今気がついて、とりあえず彼女の名前を呼んだ。

『そうだけど…どしたの、急に。』

少し冷めた彼女の口調が懐かしかった。
戻った過去での彼女は、もう少し柔らかかったような気がして、ほんの少し胸が痛む。

「あ…うん。久し振りにね…聡美と話がしたくて…。」

『え…?』

驚いている彼女に気付かれないよう密かに深呼吸をして、そっと口を開く。

「私、ずっと聡美と仲良くなりたかった。」

『っ…。』

はっきりと告げた言葉に、彼女が息を呑んだのが分かった。

驚いているだろう。相当。
なんだかさっきまでの緊張がわくわくに変わって、自然と笑みがこぼれる。

「急にごめん。でもずっと思ってた。ずっと、後悔してた…。聡美ともっと会話すれば良かったって…。何も出来ないのに…うまい話も出来ないのに…一緒に居てくれてありがとう…。私、人と話すの聡美といるとき位しかなかった…。今思うと本当に、もっと人と関わってれば良かったって後悔してる…。でも過去は変えられないから…。今、動くしかないって思った。急にごめん。本当に…。今更かもしれない。でも私、聡美と仲良くなりたい。もっといっぱい話がしたい。聡美と…友達になりたい。」

私が言い終わっても、聡美の方から音はなかった。

静寂とした音が、私を不安にさせていく。

やっぱり駄目なのだろうか。
遅かったのだろうか。
そう思ったら泣きそうになって、それでも私は彼女の言葉を待った。

暫く経って、あることに気がつく。

『…っ…。』

「…泣い…てる…?」

一瞬だけ嗚咽を漏らすような声が聞こえて、小さくそう呟いた。

『…うる…さい…。こんなこと言われたら…普通に泣くでしょ…。』

「っ…。」

やっと聞こえた聡美の声は震えていた。
泣いている事実に、私は深く息を呑んだ。

『……私も…ごめん…。卒業式の日…酷いこと言った…。本当にごめんなさい…。何もしてないとか…違う。幸乃は私の話、聞いてくれてた。辛いとき大丈夫?って言ってくれてた…。ずっと、謝りたかった…。ずっと…後悔してた…。』

泣きながら言う彼女の言葉に、私も涙が溢れていた。

聡美も後悔していたの?
こんな私のために?
何も出来てなかったのに?

『と言うか…私たち友達でしょ?友達になりたいとか可笑しいよ…。』

ふふっと笑う聡美に、ぼろぼろと涙がこぼれる。
ありがとう。
呟いた言葉が伝わったかどうかは分からない。それでも、笑う彼女が嬉しくて、私も笑った。

その後、2人で近況を報告して、会う約束をした。

早く会いたいと思った。
会って色んな話をして、今まですれ違っていた時間を取り戻したいと、そう思った。

「ごめん、長電話。じゃあ、またね。」

そう言った私に、彼女は急にあ!と声を上げた。

「な、なに?」

『そうだ…。さっき…幸乃が連絡くれる前なんだけど、幸乃を探してるって人から連絡があったの。その人、幸乃の居場所教えてって言ってきて…。ごめん。幸乃の会社教えちゃった…。』

何度も謝る聡美に対して、私は呆然としていた。

私を、探してる人…?

『その人、自分は幸乃に救われたってすごい言ってて…。それ聞いて、私も幸乃に連絡しようって思ってたんだけど。そしたら幸乃から連絡が来たんだよ。びっくりした。』

「…聡美…その人って…」

『ああ!ごめん、ごめん!言ってなかったね。幸乃とは1年の時に同じクラスって言ってた。名前は西川。西川陸って言ってたよ。』

にし…かわ…くん…?
なんで…彼が私に…?

『あ、ごめん!ちょっとまた連絡する。会う日程はその時にでも。』

「あ…うん…。」

ツーツーと流れるスマホから耳を離す。

私を…探してる…?西川くんが…?

なぜ彼が私を探してるかなんて検討もつかなかった。
救われたと彼が言っていたと、聡美は言っていた。

救った覚えなどない。
なんなら救われたのは私の方だ。
私を見つけてくれて、いつも話し掛けてくれて。
それは戻った過去でも、私が実際に歩んできた過去でも。
彼は誰にでも優しく、笑顔で話し掛けていた。

救われたのは、救われていたのは私だ。

なのにどうして?
関わりなんて全くなかったのに。

「なん…で…?」

チリンッ。

「っ!」

不意に聞こえた音に、私は思考を停止させた。
ゆっくりと足元に目を向ければ、そこには見覚えのあるものが落ちていた。

「こ…れ…。」

それは、西川くんと行った夏祭りで買った風鈴のストラップで。シャボン玉のように透き通っているそれは、暖色系でグラデーションされている。

「なんで…これが…。」

あるはずはない。

拾い上げて、呆然とそれを見つめる。
チリンッチリンッと、風で揺れて小さく音を立てながら、鮮やかなピンクの短冊が揺れている。

「沢村!!!!」

「っ」

聞き覚えのある声に、私はそちらに顔を向けた。

「…なん…で…」

数十メートル先。そこに彼はいた。
肩で息をしながら、こちらをまっすぐに見つめていた。

「西川くん…。」

その時ふと、少し大人びた彼の姿が夏祭りで見た彼と重なった。
薄暗い道。
少し頬を染めた彼が、何かを口にした。
分からない。
何を口にしたのかは。
でもこの光景は、私が戻った過去の夏祭りでの帰り道のはずなのに。
あの頃よりも大人びている彼よりも、その光景の彼は随分と幼いように見えて仕方なかった。

この記憶は、誰のもの?

混乱している私の元に、ゆっくりと彼が近付いて来るのが分かって我に返る。

あの頃より少し身長が伸びて、カッコ良さが増した彼に密かに胸が高鳴る。
それでも、私を見つめる彼の瞳はあの頃と何も変わっていないように思えた。

「沢村…」

そう呼ばれたのと同時に、彼に腕を掴まれる。

「え…。」

ぐいっと引っ張られたかと思えば、優しい香りが鼻を掠め、あたたかい温もりに包まれる。

なんで、自分は抱き締められているのか。

訳がわからずに混乱する私を、西川くんはぎゅっと力を込めて抱き締めてくる。

「会いたかった…。」

呟かれた言葉に、ふっと力が抜けた。

「にし…かわくん…。」

涙が頬を伝って、彼の肩口に落ちていく。

沢村と、呼んでくれた彼の声も震えていて、密かに笑みを溢す。
懐かしいこの温もりが嬉しくて、私はそっと彼の背中に手を回した。

「私も…会いたかった…。」

そっと瞼を閉じて、彼の肩に顔を埋める。


人が怖かった。
自分が嫌いだった。
孤独を知っても、自分を変えられることなんて出来なかった。
塞ぎ込んで、周りから距離を取って、自分を支えてくれるかけがえの無い存在がすぐそばにいることに気が付かなかった。

冷たいあの部屋の中。
そこに現れた一筋の光が、私をここまで導いてくれた。

過ごしてきた思い出は全部、無くなってしまった。
交わした言葉も、分かり合えた想いも。
私の記憶の中にしか存在しない。

それでも。
あの出来事が全て夢でも、夢じゃなかったとしても。
私が変われたのは紛れもなく現実だから。

人を思う優しさも、笑顔も、思いやりも。
今度は私が人に与えられるように。


沢山の人たちに出会わせてくれてありがとう。

脳裏に浮かぶサチの姿に、私は笑みを溢した。


チリンッ。
密かに鳴り響く鈴の音が2つ、確かに重なったような気がした。




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