君に伝えたかったこと

楽しい夜

-その夜-

大志はサラリーマンに混じって居酒屋の片隅にいた。
有名なチェーン店だけあって、平日の夜だというのに、店内はほぼ満席に近い。

約束した時間には少し早かったが、すでにビールは2杯目を大志がオーダーしようとしたそのとき、背後から声がする。

「お前、もう2杯目飲んでるのか?」

あきれたような口調で言いながら荷物を降ろす芳樹。

「いや、だって芳樹さん遅くなるかなって」

「はぁ? いま7時10分だぞ。約束の時間から10分も経ってねーよ」

「いや、オレけっこう早く着いてたっスから」

「はいはい。いつも時間だけは守るからなお前は。」

「へへっ」

「でも時間を守るってのはこれからフリーランスでやっていこうと思ったら大事なことだから。いいことだと思うよ。とは言っても最低限のマナーだけどな」

「あざーす」

「だけど…」

大志のほうを見つめ一呼吸置いてから言葉を続ける

「そのなんとかッスっていうのはやめろ。敬語じゃないし、どんなに良い写真撮ったとしても人として軽く見られるから」

「そうッスか」

「ほら、それだよ。その言い方」

「あっ、わかりました。今後気をつけます」

「そうそう、やれば出来るじゃん」

他愛の無い会話も今の芳樹にとっては心地よかった。なによりも大志と飲むことで久しぶりに笑っていることもできた。

常に何かに追われるように時間が過ぎていく毎日。
もちろん仕事が忙しく、なかなかゆっくり出来ないことも確かだったが、それよりも心の片隅にいつも引っかかっている美貴恵への想いが芳樹から安らぎという感情を消し去ってしまっていた。

(今は悩まずに過ごせているんだろうか? 長い時、悩んだりしていないといいけれど…)

連絡を取らなくなってから考えていたのは、いつも美貴恵の気持ちだった。

離れてしまったことは、芳樹にとっても、例えようがないほどの大きな喪失感だった。
しかし、自分が感じている辛さよりも、離れる決断をした美貴恵のほうが悩んだり苦しんだりはしていないだろうかと考えていた。

(もう俺のことなんかきれいさっぱり忘れてるかもしれないしな・・・ただそうじゃないとしたら)

言葉をかけることも手を差し伸べることもできない自分の無力さをただただ責めることしかできなかった。
こんな気持ちを誰かに話せるわけもなく、心の奥底でいつも静かに美貴恵のことを想うだけの時間が過ぎて行く。
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