アリサ・リリーベル・シュタルクヘルトは死んだ
「俺はまだ結婚する気はありません。お引き取り下さい」
「でもね。オーキッド。貴方ももう二十七歳よ。いい加減、結婚を考えないと……」
「だとしても、それは母上とは関係ありません。……お引き取りを」

 オルキデアが立ち上がると、ティシュトリアも渋々と付き合った。

 扉まで見送ろうとすると、何かを思い出したように、「そういえば、オーキッド」と何故かハルモニア語で口を開く。

「貴方、この部屋に女の子を置いているそうね」

 ティシュトリアの生家は軍関係ではないが、お付きの家庭教師から、ハルモニア語を習ったと聞いた事があった。
 シュタルクヘルト語も習ったらしいが、取得出来たのは、ハルモニア語だけらしい。

 そんな話を思い出しながら、オルキデアもハルモニア語で返す。

「ええ。先日、戦場で保護しました。記憶障害があるそうで、うちで預かっています」
「そのお嬢さんも大変でしょう。こんな男しか居ない場所で。私が病院を手配してあげるわ」
「ありがとうございます。ですが、彼女の面倒はこちらで見ますので」
「私の知り合いに腕の良い医師がいるのよ……」
「丁度、王都の郊外にある軍医病院のベッドに空きが出ました。
 記憶障害を患った兵も入院しています。そこなら、信頼も置けるので、彼女を預けられます」

 戦場での怪我やトラウマから、記憶障害を患う兵は多い。
 そんな兵たちの為の療養先としての病院ーー精神病院が王都の郊外にある。
 緑豊かな郊外で、病院という箱庭で、療養すればいつの日かは治るだろう、という名目で軍が建てたのだった。
 アリーシャを入院させるつもりは全く無いが、もし、ティシュトリアが病院に問い合わせてしまった時に備えて、オルキデアに口裏を合わせてくれる病院関係者の知り合いならそこに居る。

「そう? てっきり、特別な感情があるのかと思っていたわ」
「特別な感情など……」

 不意に、頭の中をアリーシャの笑顔が横切る。
 そういえば、あの日以降、アリーシャの笑顔を見ていないとい事実に気づく。

「あるの? ないの?」
「どちらでもいいでしょう。とにかく、私は仕事が残っているので」

 オルキデアが扉を開けると、そこにはトレーを持ち、ポカンとした顔で立ち尽くすアリーシャの姿があった。
 いつの間に執務室から出たのだろうか。
 アリーシャの持つトレーには、コーヒーの入った二人分のカップが載っていた。
 アリーシャの後ろに、ティシュトリアの来訪を告げた兵が着いている事から、一緒に食堂に取りに行ってくれたのだろう。

「あら? オーキッド、この子は?」

 どうやらティシュトリアは、オルキデアが預かっている娘が、アリーシャだという事を知らないらしい。

「何? 個別にメイドでも雇ったの? どこかで見た事あるような顔をしてるわね」

 無遠慮にアリーシャに顔を近づけるティシュトリアと、どうすればいいのか分からず、困惑するアリーシャに、とうとうオルキデアは我慢の限界であった。

「母上!」

 ティシュトリアからアリーシャを引き離すと抱き寄せる。

「彼女はメイドではなく、俺の大切な恋人です! 怖がらせないでくれますか!」

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