冷たい海
「ねぇ、涼平兄ちゃん。私、久しぶりに歌いたい。だからもう一度、弾いて」
 美夏は無邪気な笑顔を浮かべた。
「お医者さんに、安静にしてろって言われただろ? 今日はこれで箏は終い」
 彼女の透き通った笑顔が眩しくて。僕はつい、尻込みしてしまった。
 だが……
「涼平兄ちゃん、お願い……」
 透き通った彼女の瞳が突如潤んだ。
「私、いつまで歌えるか分からないから」
 先程までの無垢な笑顔とはあまりに対照的なその言葉は、僕の心に些末な憂いを残した。
「何……言ってんだよ」
 僕は彼女の口から出た言葉を必死でうち消そうとした。
「美夏は足が悪くなっただけ。それだけなんだ。歌えなくなることなんてない。絶対に……いつまでも、歌えるんだから」
 僕はムキになって、恐らく顔を真っ赤にしていた。
 そんな僕を見て、彼女は透き通った瞳に微かな笑みを浮かべた。
「そっか……そうだよね、涼平兄ちゃん。ありがとう。私……どうしても今、歌いたかったから」
 彼女のその言葉を聞いて、僕は溜息をついた。
「分かった、分かった。ちょっとだけだぞ」
 すると、澄んだ瞳はキラキラと輝いた。
「やった! 涼平兄ちゃん、ありがとう!」

 僕はひたすらに弦を弾いた。
 彼女の放ったあの一言で、胸に残った不安をかき消すように。あの一瞬に感じた些末な憂いを、いつの日か……本当に些末なことだったと笑える日が来るように。
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