初恋彼は甘い記憶を呼び起こす
「どうした?」

 タオルを見つめたままボーッとしている私に、菊田くんが不思議そうに声をかける。

「寒いよな。エアコン効くまでもうちょい待って」

「菊田くん……」

 彼が転勤してきてからずっと、私は気持ちを切り替えるために、昔のように“菊田くん”とは呼ばなかった。
 でも他の呼び方もしっくりこなくて、会話を交わしても出来るだけ名前は呼ばないようにしていた。
 それなのに、あの頃みたいに彼の名を不意に口にしていまい、じわりと目頭が熱くなる。

 どうしよう……やっぱり私は、今でも菊田くんが好きだ。

 運転席にいる彼へ視線を向けると、私が涙目になっていることに気付いたのか、彼はひどく驚いた顔をしていた。

「ごめん。なんでもない」

 平静を装おうと前を向いたけれど、そのあとすぐに菊田くんの右手が私の左頬に触れ、私は息を飲むように固まってしまった。
彼の手の平から、なんとも言えない優しさが伝わってくる。

「俺の名前を呼ばないから、変だと思ってた」

 所在なさげな私の瞳が、菊田くんの視線に射貫かれた。

 彼の端整な顔がゆっくりと近づいてきて、温かな唇が私の冷たい唇に触れる。
 小さく漏れ出た彼の吐息が熱くて、私の体は芯からしびれて動けなくなった。

 なにが起こっているのか、すぐに理解することができなくて……

 この時はただ、フロントガラスに当たる雨音と、早鐘を打つような自分の心臓の音がうるさかった。

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