魔女見習いと影の獣
「──はい、エドウィン」

 二つのティーカップに注がれたハーブティから、ほかほかと湯気が立ち昇る。
 椅子の代わりに仮眠用のベッドに腰掛けたリアは、美しい唐草模様のロケットを隣に差し出した。
 透かし彫りの内側に納められているのは、紫電を秘めた黒曜石──影の霊石だ。
 数か月ぶりに霊石を見たエドウィンが、恐る恐るロケットの紐に指を掛ける。

「夕飯の間に寺院から届けられたの。私からエドウィンに渡しておいてくれって」
「何も問題はなかったのですか?」
「ええ。誰が触っても影の獣にはならなかったし、あなたに持たせておくのが無難みたい。一応これも精霊の御加護だから……あ、それとね」

 リアは再びロケットに触れ、かちりと容器を開いた。中から霊石を取り出し、丸テーブルの上にそっと置いておく。
 そして彼女はロケットの内側を指差し、寺院の精霊術師から聞いた説明をエドウィンに伝えた。

「容器の中に四大精霊の加護を授けた油が塗ってあるの。もし影の獣になってしまっても、ここに触れれば元に戻れるって言ってたわ」

 ロケット自体を変身の解除装置としたのは、以前リアが作った四大精霊のアミュレットが、影獣化した後でもエドウィンの首に残っていたことをヒントにしたらしい。
 大巫女が直々に加護を授けたという黄金水をロケットに塗り込めば、霊石の力の遮断と相殺を担う便利な道具の完成だ。

「ただ念のため点検が必要だから、数年に一度はエルヴァスティに来てくれ、ですって。まあ──ほんとは皆、エドウィンから影の精霊の話が聞きたいだけだと思うけど」
「そうですか。親切心として受け取っておきます」

 サネルマの泉に浸けた通常のロケットだって、定期点検など殆ど必要としない。つまりは明らかな口実、建前である。未知の精霊へとにかく興味津々なメリカント寺院の面々を思い浮かべていると、エドウィンがくすくすと肩を揺らして了承した。
 霊石を容器の中にしっかりと入れて、リアはおもむろに視線を横へ移す。
 静寂に包まれた星見の間を、菫色の瞳がゆっくりと見渡している。傾いたティーカップが唇から離れ、小さな音を立ててソーサーに置かれれば、いつの間にか彼の鼻先がこちらに向いていた。

「今日はぼんやりとしていますね」
「はっ。ごめんなさい、こんな高い場所まで呼びつけたのに寝そうになるなんて」
「いえ、昼間のことで疲れが出ているのでは……」

 リアが睡魔に負けぬよう目をカッと見開けば、エドウィンの手が背中に添えられる。手のひらの温もりが更なるまどろみを誘い、リアは本格的にうとうとし始めてしまう。
 しかしまだ寝るわけにはいかず、彼女はエドウィンの腕を掴んでクッションの群れに倒れ込んだ。道連れにされたエドウィンが目を丸くしているのも構わずに、リアは大の字になって星空を仰ぎ見る。

「私ね、ここで寝泊まりするのあんまり好きじゃないの」
「え……」
「そりゃ星空はとっても綺麗よ。極夜のときなんて一日中絶景だから、見てて飽きないわ。でも……」

 過去に大泣きして過ごした日の記憶が過り、暫し逡巡する。
 ちらりと隣を窺えば、仰向けに倒れたエドウィンの横顔があった。星々の明かりに照らされた藍白の髪は、淡く彩られては艶を帯びて。同様にして輝きを湛えた瞳が、リアの話を促すように寄越される。

「でも?」

 ここが外だったら確実に掻き消えてしまうような、静かな囁き声。
 微笑と共に繋がれた手を握り返し、リアは途端に湧いてきた羞恥を押し殺して告げた。

「……私、物心ついたときからお師匠様と暮らしててね。両親のことは何にも知らないんだ。誰に聞いても皆、教えてくれなくて……多分もういないんだろうなってことだけは分かるの」

 それが愛し子の血筋ゆえに起きた必至の出来事だったのか、はたまた不運な事故だったのかは分からない。いずれにせよ今日に至るまで、リアが両親とまみえる機会は訪れなかった。

「だから少し、お師匠様と楽しく過ごしていても不安になるときがあったわ。私はこの人に捨てられたら、本当に一人ぼっちになるんだと思って」
「……リア」

 昔から漠然と抱いていた不安を、こうして口にすることは初めてかもしれない。ヨアキムにも、ユスティーナにも、イネスにも、アハトにも──彼らを心配させたくない一心で、彼女はいつも明るく振る舞っていた。
 けれど光華の塔に入るたび、星に囲まれるたび、皆がいる世界から追い出されてしまったような気分に陥って。
 加えて自分が幼子の域から脱してしまうと、ヨアキムに気兼ねなく甘えることも難しくなった。昔のように星見の間で師匠と一緒に夜明けを拝むことなど、恥ずかしくて頼めるはずもない。
 リアはぼそぼそと複雑な心境を語りながら、クッションに顔を半分ほど埋めた。そろそろエドウィンも何故リアが自分をここに呼んだのか、その意図を薄々と感じ取っていることだろう。
 目を合わせられぬまま、彼女がなおも遠回しな言葉を紡ごうとしたとき。

「勘違いなら申し訳ないのですが……」

 繋いだ手を通り越し、繊細な指がリアの頬に触れた。顔を覆っていた黒髪をゆっくりと後ろへ梳き、背中を抱き寄せられてしまえば、あっという間にエドウィンとの距離が縮まる。

「僕に甘えてくれていますか?」
「えッ……あ」

 額を軽く突き合わせたエドウィンは、嬉しそうな、それでいて宥めるような笑顔でリアを見詰める。
 じっくりと時間を掛けて心臓が絞られ、リアは無意味に口を開閉させる。咄嗟に飛び出しそうになった否定の言葉を飲み下し、ぎゅっと目を瞑っては正直に頷いた。

「よ、よく分からないけど、エドウィンならこんな辛気臭い話も聞いてくれそうな気がして……! うう、ごめんなさい変な用事で呼びつけて」
「構いませんよ。とても嬉しいです」

 羞恥と罪悪感に唸るリアを、彼は笑い交じりに抱きすくめてしまう。そのついでに手頃なクッションを敷くと、リアの頭をそこに落ち着けた。

「じゃあ──リアが眠るまで話し相手になりましょう。アイヤラ祭のことを教えていただけませんか? 勉強も兼ねてお聞きしたいです」

 エドウィンの優しい声に小刻みに頷いたリアは、そこでほっと安堵の笑みをこぼす。いくら紳士的な彼でもこんな我儘はさすがに呆れてしまうと思っていたが、どうやら杞憂に終わったようだと。

「えへへ、ありがとうエドウィン。あっ、でもこのことお師匠様には言わないで! 十八にもなって添い寝が必要なのかって溜息つかれちゃう」
「それは勿論。僕が言ったら殴られると思うので」
「え?」

 「何でもありません」とエドウィンが曇りのない笑顔で返した後、二人は星空の下で密やかな時を過ごしたのだった。
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