銀の系譜

 ユストゥスは王宮を後にすると、夜陰にまぎれるようにして道を行き、誰にも気づかれぬようにひっそりと、使用人達が使う通用口から屋敷に戻った。

 自分の屋敷に戻るのに、こそこそする必要はない。正直に言えば、屋敷にいるはずの、アルフィーナに会いたくなかったのだ。

 無論、彼を支持すると決めたし、そこにためらいはない。
 だが、自分の決心をグイードに告げることは気が重い。
 それは、ユストゥスの問題にフィネを巻き込み、結果、命を奪ったという罪悪感があるからだ。

 あの頃、ユストゥスにはすでにバルトライン子爵の爵位があったし、家を追い出されたからと言って、生活に困ることはなかった。
 元々、フィネとの結婚は父に許されないことが前提で、許されなければ、王都軍を辞しフィネとともに家を出ていくつもりだった。
 だが意外にも、家を継ぐことを条件に結婚を許された。約束通り家を継いだら、父から譲られたものはさっさとアレクシスに渡して、軍も退き、領地で静かに暮らすつもりだった。
 
 もちろん、結婚してとよいと思うほどにはフィネのことは好ましく思っていた。だがしかし、彼女のこと愛していたのかと訊かれたら、当時も今もそれは違うと答える。
 結局、自分に課せられたすべてものがいやで、そこから逃げ出す手段として、彼女を選んだのだ。
 
 そんなことを考えながら、ユストゥスは屋敷の庭の隅にある、朽ちかけた神殿へとむかっていた。

 貴族の屋敷には、大抵私設の神殿がある。
 王からこの屋敷を賜った際父は、ながく人が住まず、荒れるに任されていた屋敷を庭もふくめ大規模に改修した。
 新しい神殿は屋敷の中につくられ、以前からあった神殿は、自然の森を模して、無秩序に常緑樹の植わった木立の中に打ち捨てられることとなった。

 屋敷の中でも滅多に人の訪れないその場所は、子供の頃は絶好の遊び場だったが、長じてからは訪れることはなくなっていた。

 木立の中を十歩ほど入ると、樹々の間に、黒い影がみえてくる。そのままさらに二十歩ほどいくと、目的の小屋の前にたどりつく。

 薄焼きの煉瓦を載せた屋根は半分崩れ落ち、残った部分は、風や鳥が運んできた種から芽吹いた草が覆いつくしている。石壁も所々欠け落ち、穴が空いている箇所まである。祈る者のいない神殿は、風雪に任せ後は崩れ去るだけとなっていた。

 扉の横の壁は、天井から膝のした辺りまで、崩落していて、ユストゥスは残った壁を乗り越え、神殿の中に入った。 

 かつての屋敷の主人が祈るためだけに造られたのだろう。その神殿は非常に小さかった。奥行きは、四尋ほどで足りてしまう。

 簡素な造りで、神殿には祭壇をつくるためにおかれた大理石の台しかない。
 床に落ちた屋根の梁は腐り、湿ったにおいをあたりにさせている。足元の石片を埋め込んだ床は苔むし、隙間からは雑草が生えてきていた。

 足を動かすたび、踏み砕かれた朽木と押しつぶされた草の葉の青臭いにおいが立ち上った。
 ユストゥスは祭壇の前まで歩み寄り、壊れた屋根から見える空を見上げた。

 空には雲一つなかった。暗幕を剣で一条切り裂いたような細長い月が浮かび、月影のとぼしい暗い夜空に、夏の星々がかしましく瞬いていた。

 過去への痛恨、己が傷つけ苦しめた者への懺悔の気持ち。
 人が神を求めるのは、こんな時なのだろうか。
 ユストゥスは祭壇の前に立ち、目を閉じて祈った。
 かつて命を奪った者が、今は女神の御許で心安くあるように、自分が心をかける人たちが、常に女神の恩寵を感じていられるようにと。
 
 胸の中に深い沈黙が落ちる。その一番深い場所で、ユストゥスの祈りを聴いた月の女神が、静かに微笑んでいるような気がした。
 無言のうちに女神と語り合う、そんな快い沈黙だった。
 それは木立の中に分け入る人の気配に破られた。

 ユストゥスは振り返った。
 下生えを踏みしめながら、誰かがやってくる。
 足音は小屋の前でとまり、崩れかけた小屋にかろうじて残る古びた扉が、軋んだ音をたてて開いた。
 黒々と夜が切り取られた戸口のうこうに、それよりもさらに深い闇があった。
 闇は人の形をしていた。
「グイードか?」
 顔は見えない。だが確信をもって、ユストゥスは訊いた。

「はい」
 影は頷き、ゆっくりとした足取りでユストゥスの前までやってきてとまる。
「お久しぶりです。ユストゥス様」
 影は一礼し、頭を上げると同時に黒い外套の頭巾を取り、額にかかった黒髪を頭をふってはらった。

 露わになった男の顔には見覚えがある。

 ユストゥスに利用されて犠牲となったフィネの兄であり、かつてユストゥスの世話係を務めていた男、グイードだ。

「元気そうだな」
 とユストゥスは、当たり障りのないない言葉をかけた。
「ええ。アルフィーナ殿下が戻っていらっしゃいましたが、(みこ)王様のご指示ですか?」
「いや。アルフィーナに用があってアレクを遣いにやった。そうしたら直接話した方が話しが早いと、アイツが王都に戻ってきただけだ」
 ユストゥスは事実ではないことを言った。
「おや?」
 グイードが首を傾げ、左目を眼帯の上から軽くなでた。
「殿下は謁見の間で、陛下に向かって巫王様が望まれるのであれば、王位を望むと言ったと聞いておりますが」

 父王と謁見した時、人払いされていたとアルフィーナから聞いた。それなのにグイードが二人の会話の内容を知っているということは、エーファには王宮の奥深くまで自由に入りこむことのできる協力者がいるのだろう。
 特段驚くことではないが、その事を隠さず、むしろ堂々と主張してくるグイードの意図がわからない。
 ユストゥスは、グイードの調子に乗せられぬよう警戒しながら話を進める。

「アルフィーナが陛下と何を話したのか、俺は知らない。その場にいなかったし、アルフィーナに詳しく聞くこともしなかったからな」
 実際はアルフィーナを巫王の下まで案内した後に行った酒場で、アルフィーナから父王とした会話のあらましは聞いていたが、グイードには知らない振りをする。

「そうですか。貴方様がそうおっしゃるのでしたらそうなのでしょう」
 グイードは深追いしてこなかった。
「ところで、アルフィーナ殿下はいつまで王都に留まるお考えなのですか?」
「さあ、俺は知らない。だが俺は、まだあいつに用件を伝えきれていない。しばらくは俺の方が忙しいから、あいつと落ち着いて話せるようになるのは、もう少し先だろうな」
「それまで殿下は王都にいると?」
「おそらく」
 ユストゥスは頷いた。

「暇になる時期など待たずに、早急に話をすませて追い返してしまえばよいでしょう。貴方はいつまでも殿下がこの屋敷にいて、心穏やかに過ごせるのですか」
「なぜ?」
 ユストゥスは左頬の傷を軽く触って、首を傾げた。
「あいつがここにいる事を、どうして俺が気に病まなければならない?」
「なぜって」
 それが気に食わなかったのか、グイードがフィネと同じ漆黒の瞳で、眼光鋭く睨みつけてきた。
「あいつを憎んで当然でしょう」

「憎む? どうして俺があいつを憎む? 俺にとってあいつは兄弟のようなものだ。過去に何があろうと、俺にあいつを憎む理由はない」
「貴方は……、フィネを、婚約者を殺されたと言うのには、貴方はあいつを許すのですかッ!」
 グイードが叫んだ。
 ユストゥスは頭を左右に軽く振った。

「俺はあいつのことを憎んだことは一度もない。おそらくフィネもな」
「そんな勝手なこと‼︎」
 ユストゥスは、グイードの叫び声をふりはらうように首を振った。

「俺は彼女の最期に立ち会った。彼女は最期にごめんなさいと言ったんだ。俺とアルフィーナにむかって。
 お前が今日、俺に何を言いに来たかは分かっているつもりだ。エーファ殿に組して、共にアルフィーナを追いつめようというのだろう。だが俺にそのつもりはない。
 彼女の死を残念に思うからこそ、俺はアルフィーナの友のままでいたい」
 ユストゥスは静かな声で言ってから、フィネと同じ色をしたグイードの瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉を続けた。
「お前がアルフィーナを弑することをもって、自ら悲しみの報復となすなら、俺はあらん限りの力をでそれを阻止するつもりだ」
「どうしてっ、愛するものを奪われて貴方はその相手が憎くはないのですかっ⁉︎」
 グイードはユストゥスに近づくと、ユストゥスの両肩をつかんで、ユストゥスの身体を揺すった。

「俺は」
 グイードが落ち着くのを待って、ユストゥスは軽く首を振った。
「過去に拘泥し、未来を過去の悲しみで塗りつぶすようなことなどしたくない。それに、彼女の最期の言葉を無下にはできない」
「はっ」
 グイードはユストゥスの肩を放すと、一歩後ろに退いて軽蔑するように息を吐き捨てた。

「貴方はいつでもそうだった。周囲の期待に応えるために本心を隠し、誰からも褒められるように努力していた。将来アルフィーナの右腕となることを求められていたから、周囲がそれを望んでいたから、貴方はアルフィーナの、あの傲慢でいけ好かないガキの兄としての役割を演じ、奴を可愛がっていたのでしょう。婚約者を殺されてもまだ、自身の気持ちを押し隠し、父上に好かれようと努力するのですか」
 グイードが、憎しみと悲しみをこめて、ユストゥスのことを見つめてくる。

「お前には分からない」
 グイードとはどこまでもわかりあえない。グイードに理解を求めるつもりもないが、アルフィーナへの復讐にこだわるグイードを悲しく思う。ユストゥスは首をふった。

 グイードは短く舌打ちし、横をむいてうつむくと、ユストゥスの肩から手を離し、身体の両脇で拳を固め、全身を小刻みに震わせる。
「貴方が、貴方がフィネを愛さなければ、フィネが死ぬことはなかった。それなのに、貴方も、あいつと同じで、私に哀れみを向けるのですか。私から妹を、唯一の肉親を奪った身でありながら」
 グイードが苦しそうに言った。
 ユストゥスは首を振った。

「お前がそう思うのであれば、それがお前にとっての真実なのだろう。だが俺にとっての真実は別にある」
 ユストゥスにグイードが望む言葉をやることはできない。
 それを悲しく思うが、素直にそのことを伝えても、男は激高するだけだろう。それがわかるから、グイードにすべてを伝えることはできない。

「つまり、私と手を組む気はないと?」
 グイードが顔を上げた。
 ユストゥスにむける漆黒の瞳から悲しみは消え去り、すでに憎しみしかない。今この瞬間、グイードはアルフィーナとともに、ユストゥスもまた、復讐の対象としたのだ。
 だが、ユストゥスにも譲れないものがある。

「ああ」
 ユストゥスは自分の決意をグイードに知らせるため、しっかりと頷いた。
「俺は、アルフィーナが大事だ」
「フィネよりも?」
「二人は死者と生者だ。比べるまでもないだろう」
「はっ」
 グイードが息を吐き捨て笑った。

「あなたは結局、父上から自分がどう見られるかが大切なだけな臆病者だ。いまだに父上から見捨てられるのが怖いのでしょう。そのために綺麗事を並べて自分を正当化しようとする」
「どう受け取ろうとお前の自由だ」
 感情的になっても、グイードの気を昂ぶらせるだけだ。
 駄々をこねる子供に根気強く言い聞かせるように、冷静に自分の言葉を伝えるしかなかった。
「お前もアルフィーナも同じだな。傲慢で身勝手、他人に対する優しさなど欠片もない」
 グイードは嘲るように笑った。
 ユストゥスは首を振った。

「お前に同調し、アルフィーナに対する復讐を果たすのが優しさだというなら、俺は優しさなどいらない」
 グイードがはっ、と短く笑った。
「私がどのように説得したところで、殿下に味方するという考えは変わらないようですね。
 私には私の考えがあります。父上の言いつけを優先するというのなら、どうぞお好きになさい。ですが、その結果何が起ころうとも決して後悔なさらぬよう」
 グイードは外套をひるがえしながら身体を反転させると、朽ちかけた神殿を出て行った。




 ユストゥスはグイードの気配が消え、しばらくたってから屋敷に戻った。
 自室に戻る途中、父の部屋の前を通ると、人が起きているらしい物音がした。
 ユストゥスは思わず歩み寄り、扉を叩いた。
「誰だ」
 誰何の声の後に名乗ると、入室を許可された。

 父は長椅子に座り、寝間着の上に外衣(ガウン)を羽織って、くつろいだ様子で葡萄酒を入れた杯を傾けていた。
「帰っているとは聞いていなかったが、まあ座れ」
 父に言われてむかいの椅子に座った。
「飲むか?」
「いいえ」
 父に言われて首を振る。酒精に溺れたい気分ではなかった。

「何かあったか?」
 父は杯を卓の上に置き、脚の上で手を組んで、話しを聴く姿勢をとる。
「何かと言うわけでは。ただ訊きたくて」
「それは?」
「七年前のことです」
 ユストゥスはうつむき、両膝の上で手を組んだ。

「フィネとの婚約をなぜ許したのですか?」
「お前が望んだからな」
「それだけで?」
 ユストゥスは父の顔を見て続けた。
「フィネは私の婚約相手としては身分も低かった。内々でしたが、当時はエルスター家からカルラ嬢との婚約の話しもきていたと記憶しています。他にもいくつか結婚の話はきていたと覚えていますが、エルスター家はこの国の重鎮だ。アルフィーナのことを考えれば、エルスター家と縁を結ぶのが一番よい選択だったのではないですか?」
「確かにな。今のお前であれば、迷わずエルスター家のカルラ嬢と婚約させていたし、お前も納得してその話に従っていただろう。だが当時のお前は、私が独断で婚約させるようなことをすれば、それを理由にフィネを連れて家を飛び出していたのではないか?」
「だからフィネとの婚約を許したと」
「ああ」
 父が深く頷いた。

「私はお前の父だ。お前の気持ちもそれとなく察してはいたさ。だから正直、フィネとお前を婚約させることは悩んだ」
「フィネが貴族令嬢ではなかったから?」
「いいや」
 父が首を振った。
「お前もだが、フィネもお前のことを愛しているとは言いがたかったからな」
 貴族の結婚は家を存続させるためであり、夫婦の間に愛情は必須ではない。
「そんな理由で?」
 父の言い分に驚いて、ユストゥスは目を大きく見開いた。

「政略結婚ならいい。家のためであっても、お互い結婚に対する覚悟があるからな。だが、互いに何かから目を背けるために結婚しても上手くいかんよ」
 その言葉に、父はすべてをわかっていたのかと、ユストゥスは苦笑した。
 フィネがユストゥスとの婚約を承諾した理由は、おそらくだが、この屋敷をやめるため男性の庇護と貴族としての暮らしを欲していたからだ。

 フィネの父は元貴族だったが、事業に失敗してそれを手放した。その後、フィネの両親は死んだ。フィネは、両親もなく、暮らしのため仕方なく、この屋敷に仕えていた。
 フィネの母は、王都の貧民窟厳での暮らしの中でも、貴族としての誇りと教養を身につけさせるため、子供たちを厳しく育てたらしい。下働きの侍女というのは、彼女にとって納得のいく立場ではなかったのだろう。

 そのことにユストゥスは気づいていたが、この家を出られるのなら、それでもかまわないとフィネに求婚した。

「それにまあ、婚約は婚約だ。結婚ではない。いつでも取りやめにできる。二人の婚約を知った殿下がごねるとも予想していたが、殿下と話す中で、お前が自分とフィネの気持ちを見つめ直して、婚約を解消すればばよいと思っていた。正直、あんなことになるとは思っていなかった。フィネとグイードには悪いことをしたと思っている」
「そうですね」
 先ほど強い憎しみをぶつけてきたグイードの様子を思い出し、ユストゥスは大きく息を吐き、膝の上に組んだ手に視線を落とした。
「だがいくら悔やんだ過去は変えられんよ。それよりお前はこれからどうするつもりだ?」
 父の問いかけに、ユストゥスは顔を上げた。

「どう? とは」
「殿下は王都に戻ってきた。殿下は巫王様にお会いしたのだろう? お前はこらから先どうするつもりだ」
「父上はどうするのがよいとお考えですか?」
 テオドールは杯に残っていた葡萄酒を一気にあおり、空になった杯を手の中で回しながら言う。

「アデーレのことを覚えているか?」
「ええ、なんとなく。義母(はは)上にはよくしていただきましたから」
 ユストゥスとアルフィーナの自室には、座布団(クッション)をはじめ、アデーレの手によって刺繍された小物がいくつか残っている。
 テオドールが杯を卓の上に戻して頷いた。

「今更いうのも恥ずかしいがな、あれとは愛し合っていた。利害のために結婚したのでないのは確かだ」
「なぜ、今ここでその話しを?」
「うむ」
 とテオドールが頷いた。
「あれと結婚する時に一つだけ約束した。二人の間に子ができても、その子は跡継ぎにしないとな。それを了承して、あれは私と結婚した。お前と殿下の母になると決心して、あれはこの家に嫁いできた。誰が何と言おうと、お前はあれと私の最初の子だ」
 ユストゥスは父の顔をまじまじと見つめた。

「私は、母上に……」
 義母(はは)として礼儀的に敬うことはしたが、心を許すことはしなかったと、続く言葉は、軽く左右に首を振るテオドールによって、静かに制された。

「今更言っても仕方がないことだ。あれがまだ生きていれば、お前も殿下もあれの心を理解することができただろう。
 だがあれが生きていたころ、お前たちはまだ幼すぎた。あれが健康であればまた違ったのだろうが、あれは寝台からなかなか起き上がることもできなかったし、お前たちを気にかけることはできても、それを示すだけの十分な行動は取れなかった。
 当時、あれの想いを話したところで、お前はまだしも警戒心の強い殿下はあれに心を開かなかっただろう。お前があれに懐けば、殿下とお前の仲が壊れるのではないかと心配でな。あれと話して何も言わないことにした」
「そうですか」
 ユストゥスは呟いた。
「もしあれにすまないと思うなら、墓に花でもそえてやってくれ。それで十分だ」
「はい」
 ユストゥスは頷いた。

「そう言うことだ。アデーレも私も、お前がこの家を継ぐことに何の不満も持っていない。
 それより、殿下は巫王様にお会いした後も王都に留まった。お前はそれでいいのか?」
「ええ。フィーと話して、互いに気持ちを決めました」
「そうか。ならばよい」
 テオドールが満足げに微笑んだ。
「そうとなれば、お前に渡したいものがあってな」
 テオドールは立ち上がり、少し待っていてくれと言って、隣の寝室に姿を消した。ややあって戻ってくると、再び長椅子に腰掛けた。

「これを」
 渡されたのは白金でできた小さな指輪だった。よく見れば、指輪の表面には、月の女神の花と言われるの宵見草の蔦と花の意匠がぐるりと彫ってある。宵見草の花芯部分には、淡い紫色の月光石埋め込まれていた。

 月光石は大陸広しと言えど、この国の北部山脈でしか採れない。様々な色のものがあるが大半は無色透明で、色のついたものは滅多に出てない。その中でも紫色をしたものは特に貴重だ。

 指輪に埋めこまれた月光石はみな小さなものだが、これ全てとなるとかなりの値がつく。

「お前を拾った時、お前が入れられていた揺り籠の中に入っていた」
 父の説明に顔を上げた。

「お前と共に入れられていたものはこれしかなったし、これだけではお前の両親を見つけることはできなかった。だが、お前の生みの親は何かの想いを持ってこれをお前と共に揺り籠に入れたのだろうと思ってな。いつかお前が、自分の進むべき道を決めたら渡そうと思っていた。お前の好きにするといい」

 ユストゥスは掌の指輪に視線を注ぐ。
 フィネのことがなければ、アルフィーナが複雑な生い立ちを抱えるこの国の王位継承権第一位の王子でなければ、自分がテオドールに拾われた子でなければ、様々なこだわりを捨てて考えれば答えは単純だ。兄弟のように育ったアルフィーナのことを愛している。だから、七年前のことがあってもアルフィーナを赦せる。
 そして彼との関係を守るために、父も母は心をくだいてくれた。
 指輪をのせた手を握りこみ、膝の上においた。
「アルフィーナは私の友であり弟です」
 ユストゥスは父にむかって笑いかけた。

「運命が存在するのかしないのか、人の身である私にはわかりませんが、父上と母上の子になったことが、女神から賜った私の運命であるというのなら、私はそれを私にとって意味あるものにしたい。ただ座して、与えられたものに不満を言うだけのようなことはしたくありません」
「うむ」
 テオドールが頷いた。

「人生とはままならぬものだが、だからこそ愛おしくもあり、哀しくもあるものだとこの年になってやっとわかる」
「私にはまだ分かりません。でも、私はもう、自ら欲するものを過って、誰かを犠牲にするようなことはしたくありません」
 それに気づくまでの時間とそのために失った命は取り戻せないが、未来で同じ誤ちを繰り返さないことはできる。

「そうだな。それがよい。お前は色々と悩んでいたようだが、私は、お前を女神から授かってから今日まで、お前が息子であったことを悲しんだことはない。私の役割はお前にこの家を受け継がせることだ。そしてお前はその子どもにこの家を継がせる。そうやって、人の世とは続いていくものなのだろう。全てお前の好きにするといい」
「はい」
 過去への戒めとして、そして自らへの誓いとして、この指輪を常に身につけよう。ユストゥスは左の頬の傷を軽くなで、左の小指に指輪をはめた。

「私は父上と母上の子となったことを、女神に感謝しています」
 ユストゥスは父の目をまっすぐに見て言った。父は一瞬目を大きく見開き、次いで安心したように笑い一人頷いた。
「それは良かった。にしても長い話になったな。お前の心がかりはなくなったか?」
「はい。お陰様で。お休み前のところ、突然お邪魔してしまいもうしわけありませんでした」
「いや、年をとると睡眠が短くなってな。最近は長い夜を持て余している。ちょうど良い暇つぶしになった。長く話して喉が乾かないか? 私はもう一杯飲もうと思っているが、お前はどうする?」
「では私にも頂けますか」
「ああ」

 その後の父と酒を飲み交わし、とりとめもない話をして、ユストゥスは部屋に戻った。着替えて寝台の上に横たわると、仕事の疲れとほどよく回った酒精が、ユストゥスを心地よく眠りの世界に誘った。そこでユストゥスは夢を見た。
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