中古車

   06

 職場のイエローキャップで通常の勤務を続けていたが、手塚奈々は心の中に気まずい思いを隠していた。斉藤さんと磯貝さんにウソをついてしまったからだ。会えたことは嬉しかった。しかし明後日の飲み会には行かない。
 スイミングクラブも止めるつもりだ。あそこで知り合った田所という中年の男と顔を合わせたくない。会えばトラブルになりそうで怖かった。
 最初は、いつも帰り際に自販機のジュースを奢ってくれる、優しいオジさんという印象だ。それがルピタの商品券に変わった。
 「奈々ちゃん、これ使うかい?」と言って見せられたのが、三
千円分の金券だった。
「え」冗談かと思った。
「オレはルピタで買い物しないんだよ。人から貰ってさ、無駄になっちゃうから」
「本当ですか?」すぐにSPEEDOの水着を買う足しにできるという考えが、手塚奈々の頭に浮かんだ。そうなると相手の言葉を疑うなんてことはしない。
「うん。あげるよ」
「すいません。ありがとう御座います」
 それ以後は度々になった。何か変だなと思いながらも月に二、三度は商品券を貰うようになる。
 「どうだろ。一緒に食事でもしないか?」
 そう言われたら断れなかった。何度か一緒にファミリーレストランへ行く。そして、とうとう「オレと付き合わないか?」と言われた。
 ちょっと待って。歳が違いすぎる。無理、無理、絶対に無理。だけど無下には断れない。これまで色々として貰っていた手前があった。
 「少し考えさせて下さい」これだけ言うのが精一杯。その後は、もう田所のオジさんとは顔を合わせたくないので、泳ぎに行くのは止めた。
 もしも会ったら、「この前の返事は、どうなった?」と訊いてくるのは間違いない。とても無理です、なんて正直に答えたら相手の態度がどう変わるのか恐ろしい。計算してみるとトータルで7万円分の商品券を受け取っていた。今更もう返せない。全部しっかり使ってしまった。
 こういう事情があるので飲み会には行けないなんて、とても斉藤さんや磯貝さんには言えなかった。
 男に言い寄られて困るのは中学に入学した頃から始まって、ずっと続いていた。学校に内緒でやった、お好み焼き屋でのアルバイトは、スカートの短さに応じてチップが沢山もらえた。比例して、デートしようという誘いは頻繁だった。
 多くの男たちが自分の長い脚とヒップに魅力を感じるらしい。中学では、仮病まで使った助平な教師に、スカートの中を覗かれた経験があった。本当に男は油断がならないと思う。
 体育の授業の後では、汗で濡れた体操着が頻繁に盗まれた。それが数日後には、ちゃんと机の上に戻してある。すっごく気持ち悪かった。三年生になって、A組の木畑耕助と付き合い始めて、彼がB組の土屋恵子に金を払って盗ませたと白状した。彼は木畑興業の一人息子だ。性奴隷にしている28歳の人妻に汗まみれの体操着を着せて、あたしのことを想像しながらセックスしていたらしい。
 カメラが趣味のクラスメイトからは、水着の写真を撮らせてくれと申し出があった。モデル代は1万円だ。現像した作品を見せてもらうと、なかなかの出来栄えだった。学校で数人の男子生徒に披露すると大好評で、焼き増しして譲って欲しいと言われる。それで写真集にして売ってみることにした。100人以上の男子が買ってくれた。学校にファン・クラブまで結成されて、手塚奈々は一躍スターダムへと登りつめる。それだけで勢いは止まらなかった。どこからともなく生徒会長の選挙に立候補するべきだという声が上がる。ファン・クラブは後援会と名前を変えて選挙対策本部になった。推されるがままだった。自分は器じゃないと思っていた。しかし開票してみると2位に大差をつけて見事に当選。あたしにはリーダーとしての資質があるのかもしれない、と自信がつく。気づかなかっただけなんだ。
 自分が生徒会長になったからには、何か今までと違うことをしたいという気持ちになった。色々と学校には不満を感じていた。
 これまでの君津南中学は成績上位の子が、注目を集めてリスペクトされる雰囲気だ。それは間違っている。世の中、勉強だけじゃないでしょう。頭のいい子が社会に出て成功するとは限らない。やっぱり世渡り上手じゃないと生きていけない。お好み焼き屋のアルバイトで、しっかり学んだ。
 そこで美人コンテストを学校行事に加えるべきだと思いつく。そうすれば女子生徒の美意識が向上するだろう。男子生徒の目は肥える。そして一定の上位入賞者は私服のでの通学が許されていい。水泳の授業では好きな水着を選んでも構わない。
 これまでは器量のいい子、スタイルのいい子、魅力的な子が相応しい評価を受けてこなかったと思う。それを正したい。
 君津南中学校にとって大きな改革になるはずだ。反対する連中も出てくるだろう。実現するには、更なる大きな支持が必要だと感じが そこで後援会のメンバーを集めてアイデアを募った。水着の写真集でブレークしたのだから、次は下着の写真集を売り出そうという意見が大半を占めた。一部からだが、宮沢りえみたいに一気にヘア・ヌードを出せという声も上がる。さすがに、それはまだ早いと何人かが反対してくれた。
 手塚奈々は胸を撫で下ろす。恥ずかしかった。しかしヘア・ヌードを見送った理由が、まだ早いだった。いずれやることを全員が期待しているみたいな言い方じゃないの。やばい。実は大きな問題を抱えていた。奈々はヘアが薄かった。数えるぐらいしか生えていないのだ。もしも実行するなら、駅前の美容室アベニューでトップスタイリストとして働いてる従姉の小夜ちゃんに頼んで、日本髪のセットに使う付け毛を貰わないとダメだ。それで誤魔化すしかないと思った。
 下着の写真集を売り出す前に、サンプルとして何枚か撮影することにした。水着の時よりもセクシーになるように、ちよっと過激なポーズを取ってみた。気合が入った。仕上がりは文句なし。何人かの男子生徒に見せると反応は期待通りだ。前回のセールスを上回るのは確実と思われた。ところがだ、性格の悪い女が邪魔をしてくれて、すべてが台無しになってしまう。
 女の名前は古賀千秋。2年B組の学級委員長だった時に万引きをして補導された前科を持つ。生徒会長の選挙にも立候補したが、最下位で落選した。警察に捕まるまでは最有力候補だったのに、だ。手塚奈々がスターダムへ駆け上るのとは対照的に、坂道を転げ落ちていく。
 性格は悪い。一緒に捕まった仲間に唆されて万引きしたと、罪のすべてを押し付けてしまう。警察は丸呑みしてくれたかもしれないが、クラスの生徒たちは誰も信じなかった。罪を被された子は少年院へと送られた。古賀千秋は三日ほど休んだだけで、普段と変わらない態度で学校へ戻ってきた。学級委員長の役を辞するわけでもない。その厚かましさはクラスの全員を驚かせた。
 選挙で惨敗した口惜しさから、仕返しの機会を虎視眈々と狙っていたみたいだ。下着姿のサンプル写真を男子生徒から横取りすると職員室へ駆け込んだ。その場に居合わせた教師たちに大声で報告したらしい。
 生徒会長を務める女子生徒が、下着の写真を撮って男子生徒の関心を引こうとしていた事実は、君津南中学校が設立されて以来の大スキャンダルとなった。
 教職員たちから説得されて、手塚奈々は就任から僅か2ヶ月で辞任を余儀なくされた。
 すべてがパーだ。役職のない、ただの生徒に戻ってしまう。がっかり。だけど君津南中学の生徒会長であった事実は消えない。
 手塚奈々は、その後に会う初対面の人すべてに、会話を始めて3分以内に、「中学では生徒会長をしていました」と表明することにした。自分に箔をつけるだめだ。そこらに大勢いる美人だけど頭はバカという女たちとは違う。しっかり、そこを認識させたい。
 ところがだ、その行為が上手くいっているかと訊かれたら、首を横に振るしかないのが現実だった。君津商業を卒業してイエローキャップに就職したが、職場に仕事をしに来ているのか、それとも性行為をしに来ているのか分からない状態なのだ。
 処女を失ったのは中学3年の終わりになってからだ。遅きに失した感がある。つまり美人でスタイルのいい自分としてはだけど。男子からの人気は絶大で性格は誰からも好かれた。そんな女が15歳まで未体験だったなんて誰が信じるだろう。
 中学の最終学年になると急に焦りを感じ始めた。もうヤッてる女子はクラスに何人かいるらしい。先を越された。周囲からの手塚奈々を見る目は、あれだけ器量のいい女だから高校生の素敵な彼氏がいて当然だろう、だった。それが拙かった。素敵な男が誰も言い寄って来てくれないのだ。一人ぼっちの状態が長く続く。
 最悪なのは彼氏がいる同級生が、「あの時って、どのくらい痛いの?」と訊いてくることだった。
 「相手の優しさとテクニックに大きく左右されるから、一概には言えないわ」と、週刊誌で得た知識で答えるしかない。すごく惨めな気分だった。
 最も落ち込んだのは、可愛がってる後輩から「あたし不感症みたいなんです。いつヤッても気持ち良くならなくて。どうすればいいんですか?」、と相談された時だ。
 みんなが手塚奈々は経験豊富だと思っていた。もしも「あたしって実は、まだ処女なのよ」、なんて告白してみろ。君津南中学に衝撃が走るのは間違いない。ニュースは勢いづいて一気に千葉県の沼田知事にまで伝わる可能性だってありそう。
 更に、とんでもない情報を同級生が持ってきた。天敵である古賀千秋の話だ。
 「千秋ったら、もう初体験しているらしいよ」
「えっ、マジで?」もう、びっくり。あんな野暮ったい女に先を越されたなんて。
「その後は痛くて、しばらくはガニ股でしか歩けなかったって」
「……」
 あたしを生徒会長の役から引き摺り降ろした憎い女だ。そんな卑劣な奴に遅れを取ったなんて。 
 手塚奈々は崖っぷちに追い詰められた思いだ。好きでもなかったが、A組の木畑耕助とヤろうと決心した。ずっと前から言い寄られていたのだ。暴力団の一人息子で金を持っているし、しばらくは付き合ってもいいかなと考えた。だけど性行為は、あたしとヤれるのに狂喜したみたいで荒々しくて痛かった。優しさの欠片もない。
 古賀千秋はガニ股でしか歩けなくなったらしいが、手塚奈々の場合はそれを超えていた。熱く焼けた鉄の棒をアソコに入れられたみたいに、下腹部が燃えるように痛くなった。二日も学校を休む。下半身に麻痺が残るんじゃないかと心配したが、それはなかった。
 二度、三度と経験を重ねて次第に気持ち良くなっていく。だけど木畑耕助とのセックスは想像していたのと違う。ほとんど性奴隷の人妻が見ている前でヤった。名前は蔵本真理子だ。小学生の娘がいるのに、なかなか綺麗な女で、聞いたところに因ると亭主が木畑興業に迷惑をかけて、その償いとして一人息子の性奴隷にされたらしい。手塚奈々は可哀想だと思わなかった。耕助と一緒になって人妻を辱めることに快楽を覚えた。その女にしても股間を、たっぷり濡らして喜んでいる様子が窺えたからだ。
 手塚奈々の性体験はSM調で始まった。中学生の自分が御主人様で、28歳の真理子に公園で服を脱げとか命令するのは楽しい。夢中になった。蔵本真理子は露出狂らしくて、どんなに恥ずかしい行為を要求しても、逆らわないで素直に言うことを聞く。どんどんエスカレートしていった。
 ある日のこと、クラスメイトの山田道子に誘われてレンタルビデオを一緒に観た。タイトルは『タイタニック』で恋愛映画だった。そして気づく。あたしって、好きな人とヤッたことがない、と。
 すっかりSMの世界にハマっていた。いくら何でも、これは拙いだろう。いずれ素敵な彼氏を見つけて結ばれたい。やっぱり映画みたいな恋愛に憧れた。君津商業高校に入学すると、少しづつ木畑耕助とは距離を取ることにした。卒業するまでには、きっぱりと別れた。そしてイエローキャップに就職したのを機に、これまでとは違う人生を歩もうと決めた。
 男と付き合った経験が少ない女を装う。エッチな話には加わらないように気をつけた。卑猥な冗談も無視。これからは好きになった人としかヤるもんかと誓う。しかし2ヶ月ともたなかった。
 朝、開店前の準備で商品棚の掃除と点検をしていて、手塚奈々は倉庫からカーステレオを運んだ。三つの箱を抱えていたので、前が良く見えなかった。足元の何かに躓いて転んでしまう。
 倒れた勢いで思いっきり床に手を付いて痛かったが、高価な商品を破損させたという焦りの方が強い。ガチャンと音が聞こえて、箱が大きく凹んているのが目で確認できた。やばい。一個が10万円近い商品だった。ど、どうしよう。
 「手塚さん」
「あっ、すいません」いきなり後ろから声を掛けられて、びっくりした。もう反射的に謝った。相手は二年先輩の田中さんだ。背が低くて太っている。挨拶ぐらいで、ほとんど話をしたことがない。ひどく叱られると覚悟した。
 「いいよ。オレが上手く処理するから」
「え?」……どういうこと。
「大丈夫。黙っててやるから。手塚さんも誰にも言っちゃダメだ」
「……」しらばっくれるってこと? そんな事できるの?
「オレに任せろ」
「はい」思わず返事した。
「新人なんだから仕方ないさ。よくある事なんだ」
「そ、……そうですか」
「オレも何度か先輩に助けてもらった」
「本当ですか?」
「心配するな」
 そう言うと田中先輩は箱が凹んだカーステレオを拾って、それらを商品棚の所定の場所へ並べてしまった。本当に大丈夫なのか心配になってくる。これって犯罪じゃない?
 「夕方になったらオレが見つけたように装って店長に報告する。きっと客が誤まって落として、そのままにしたと思うだろう」
「……」
「安心しろ」
「はい」手塚奈々は頷く。安堵したが罪悪感は残った。「どうも、すみません」
「近くに居たのがオレで良かったぜ。ほかの連中じゃ、ここまで融通は利かない」
「ありがとう御座います」田中さんて、いい人だ。
 それからは二人は親しく話をするようになった。ただし手塚奈々は負い目を感じていたので相槌を打つだけだ。何を言われても愛想笑いで返した。田中先輩は馴れ馴れしく身体にも触れてきた。肩から背中へと、そのうち冗談っぽく、お尻を叩かれもした。休憩室で二人だけになった時、とうとう性的に敏感なところに彼の手が伸びてきた。「い、いやです」これ以上はマズい。初めて拒否の態度を表した。
 「いいだろう。ちょっとだけだ」
「やめて。お願いです」田中先輩が性的に興奮しているのが分かった。
「手塚、言うことを聞け。オレが上手く処理してやったんだろ? 少し触らせてくれたら、それでいいから」
「……」仕方なく我慢することにした。
 しかし少し触って終わりにはならなかった。その後は何度も何度も奈々の身体を弄んだ。その気がなくても愛撫されたら、相手が誰であれ、性的快感は込み上げてくる。喘ぎ声が口から漏れると、田中はOKサインと勘違いして大胆になった。結局、彼のワゴンRの車内で最後まで行き着く。田中先輩の女にされてしまった。
 なんてイヤな男だと思った。こんな形で女をモノにするなんて最低だ。好きになった人とヤりたかったのに、その思いとは反対に嫌いな男とヤるハメになった。
 もう普段は彼と口を利かない。声を掛けられても返事はしない。せめてもの抵抗だ。セックスする場所は主に職場だった。給料が安いのでモーテル代を支払う余裕がない。車の中は狭すぎた。呼ばれたら黙って男子トイレに付いて行く。中でパンティを下ろして尻を相手に突き出すだけの行為だ。もう顔も見たくない。嫌だけど仕方なく抱かれているんだという態度をあからさまにしてやった。
 
 ある日の朝だった、顔を合わせるなり田中は言ってきた。「やばいぜ。オレたちの関係が店長にバレちまった」
「えっ」驚いたが、同時に(ああ、良かった)と思った。この関係が終わりになる。職場の誰かが気づいたらしい。それでチクったんだ。
「もし本部に報告されたら大変な事になっちまう」
「……」やはりカーステレオは弁償しなきゃならないの? そしたら今まで田中と嫌々ながらセックスしてきたのは何だったの?
「お前、店長にも抱かれるしかないぞ」
「え、どうしてっ? 嘘でしょう」びっくりした。理解できない。
「本部に報告されたら大変なことになるんだ」
「どうなるっていうのよ?」
「オレたちがクビになるどころじゃない。特別背任とかいう罪に問われる可能性があるんだ」
「え、……特別背任て?」何よ、それ。聞いたことない。いつも後ろからヤッてたから?
「オレはよく知らない。だけど店長が言うには、もし起訴されたら刑務所行きになるらしい」
「冗談じゃないわ」もう目の前が真っ暗。
「頼む、一度だけ店長に抱かれてくれ。それで全てが丸く収まるんだ」
「……無理よ」
「いつものように壁を向いてケツを出すだけだ。どうせ身体に入ってくるモノに大した違いはないんだから。オレに抱かれていると思ってりゃいいのさ」
「……」なんて、ひどい言い方。デリカシーの欠片もない。
「な、一度だけ我慢してくれ」
「いや」
「お願いだ。お前に悪いようにしないから」
「だったら、この関係も終わりにして」
「え、どういうことだ?」
「もう十分に償ったと思う。これからは声を掛けないで」
「もうオレに抱かれたくないって言うのか?」
「そう」
「……」
「もう終わりにしたい」
「わかった。お前が、そう言うなら」
 手塚奈々は渋々、職場の男子トイレの中で店長に抱かれた。しかし恐れていた通り、それで終わりにはならなかった。
 「もう一回だけ」とか「これで最後だから」、そんな言葉に騙されて関係は続く。相手が二人になったので大変だ。ここを退職するしか自分は自由になれないと思い始めた。
 新聞の折り込みチラシの中に求人広告を見つけて、真剣に目を通す。中古車買取店のパイナップルが従業員を募集していることを知った。やっぱり自動車に関係した仕事がしたい。パイナップルは、ここよりも少しだけど給料が良かった。家からも近い。電話してみると、まだ誰を採用するか決まっていないと言われた。また後で連絡しますと伝えて手塚奈々は携帯を畳む。
 決心がついたのは店長との四度目の行為が終わった後だ。彼がズボンのチャックを上げながら口にした言葉に驚いた。
 「お前、なんで田中みたいな奴にヤらせるようになったんだ。あいつは最低の男だぞ」
「……」それは知ってる。あんたにしても同じでしょう。理由は言えないの。
「田中がオレに言ってきたんだぜ」
「え、なんて?」
「一万円で手塚奈々とヤれるように御膳立てします、ってな」
「うっ。嘘でしょう?」
「本当の話だ。あいつは、そういう奴なんだよ」
「……」あたしは騙されたんだ。
 特別背任とか訳の分からない言葉を使われて信じてしまった。考えてみれば、田中とのセックスがバレて、その償いに店長とセックスしなきゃならないなんて変な話だ。万引きで捕まったのを万引きで償うのと同じじゃないの。ああ、バカだった。自分が情けない。 
 「田中と手を切った方がいい」
「そうする」
「それでだ、よかったらオレと付き合わないか?」
「……」まさか冗談でしょう?
「そうしてくれたら、オレもヤる度に一万円を支払わなくて済むから助かるんだ」
「……」マジで言ってんの? 呆れて何も言えない。お前らって本当に最低の男だ。
「な、考えてくれないか、手塚」
「うん」心の中は怒りで燃え上がっていた。しかし感情を口に出すことはしない。仕返しがしたいと思ったからだ。
 ただで終わらせるもんか。君津南中で生徒会長にまでなった、このあたしを見くびるんじゃないよ。手塚奈々は作戦を練ることにした。

 数日後の火曜日、昼間で店内に客はほとんどいなかった。
 「奈々ちゃん」商品棚を掃除していると田中に呼ばれた。期待した通りだ。
「……」返事はしない。手塚奈々は手を止めて男子トイレへと向かう。
 「手塚」と呼ばれた時は仕事の関係だが、「奈々ちゃん」は、これからセックスしようという合図だった。田中の後を付いて行きながら、ポケットに忍ばせてあるボイス・レコーダーのスイッチを入れた。
 男子トイレの中で素直にズボンとパンティを下ろす。壁に両手をついて身体を支えると、丸い尻を田中に突き出した。くねくねと揺らして挑発することも忘れない。
 「田中先輩。いやです、こんなこと」
「うるせいっ。大人しくヤらせろ」尻を引っ叩かれた。
「うっ、痛い」
「静かにしろ。いま突っ込んでやるぜ」
「田中先輩、許して下さい」
「ダメだ。手塚、お前はオレのセックス奴隷なんだよ。いいか、それを忘れるんじゃない」
「うっ、うう」声を出して泣いてみせた。でも涙は流れていない。
「もっと脚を広げろ」
「いやっ、いや」
 あうっ。挿入される瞬間だ、いつも強い衝撃が身体を突き抜ける。ピストン運動が始まると、それが消えて気持ちよくなっていくのだけど。これで作戦は成功したと思う。手塚奈々は満足だった。

 罠は前日に仕掛けた。
 田中が一人でいるところを見つけて声を掛けた。「お願いがある
んです」
「なんだ?」
「恥ずかしい話なんですが……」
「え、恥ずかしい話だって?」
「はい」相手が興味を持ったのが伝わってきた。
「言ってみろ」
「あの時なんですが、あたし」
「うん」
「そのう、……乱暴に扱ってほしくて」
「なにっ?」
「レイプされるみたいな感じが好きなんです」
「本当か?」
「はい」
「マゾだったのか、お前は?」
「そうかもしれません」
「なるほど。いつも素っ気ない態度の理由はそれだったのか?」
「なんか、その……物足りなくて」
「俺が優し過ぎたんだな」
「そうなんです。あたし、汚い言葉を掛けられたり、身体を叩いて欲しいと思ってました」
「よし、近いうちにやってやろう」
「怒鳴ったり、お尻を強く叩いてくれますか?」
「実はな、いつか俺もそんな事をしたいと思っていたところだ」
「お願いします」
「早く言ってくれたら良かったのに」
「恥ずかしかったんです」
「もしかして俺たち、すごく相性がいいかもしれないぜ。くくっ」
「……」図に乗りやがって、このバカが。
 計画は上手く運んだ。田中と店長の二人分のレイプシーンが、ボイスレコーダーに記録された。誰が聞いても、しっかり状況が判断できる内容になっていた。
 これを本部から各店舗の巡回にやって来る、山本さんに聞かせてやろう。結婚したばかりの三十代の女性だ。これまで何度となく声を掛けてくれて可愛がってくれた。
 あの二人を訴えたいと言うつもりだ。たぶん「ちょっと待って」という言葉が返ってくるのは間違いない。上司に相談する為だ。テレビのコマーシャルまで流しているイエローキャップが、その店舗でレイプが行われていたなんて大変なスキャンダルだろう。社会的な信用を失う。なんとか示談に持ち込んで、これが公にならなように働きかけるはず。手塚奈々は応じてやるが、渋々という態度を装って金額を吊り上げたい。
 100万円は手にしたかった。中古で買ったダイハツ ムーブのローンを完済しよう。それと買いたかったブランド品が幾つかある。それに出来ればハワイとか、海外旅行もしてみたい。そう考えると100万円じゃ足りそうになかった。200万、……いや、300万円は必要だ。少しは貯えに回したいし。
 欲しい物をリストアップしようとすると、手塚奈々の想像は無尽蔵に膨らんでいく。歯止めが掛かることはなかった。おのずと手にしたい金額も、どんどん増えていく。

   07 
 
 「こちらなんです」板垣モータースで専務の肩書きを持つ大柄な男、板垣順平は並べられた展示車の前で立ち止まって言った。
「事務所にいた女性の方、すごく綺麗な人ですね」斉藤勇作の目はミスティック・ブルーのBMWに釘付けだったが、あえて車とは関係ないことを口にした。
「あはっ」板垣順平は意表を突かれたみたいに、少しだけ後ろに仰け反った。「妻なんです。ありがとうございます」
「えっ、本当ですか?」その事実は磯貝から聞いて知っていたが、斉藤勇作は驚いてみせた。「羨ましいな」
「あはは」
 美貌の妻を褒められて素直に喜んでいた。さぞかし自慢なんだろうと、想像がつく。
 しかし勇作は不釣合いなカップルに違和感を覚えた。亭主は身長こそ高いが、それほどイイ男という感じではない。女房の方は、もしかして気のせいかもしれないが、何か内面に秘めたモノを持っていそうだった。どんな夫婦生活を二人が送っているのか、まったく想像がつかない。価値観とか趣味が、ぜんぜん合わないような気がした。
 BMWの回りを歩いてボディにキズはないか入念に調べた。ボンネットを開けて、エンジンルームも点検した。スチーム洗車してくれたのだろう、油汚れは見つからない。外回りに不満はなかった。スポーティなスタイルがカッコいい。
 「どうぞ、座ってみて下さい」
「はい」
 板垣順平に促されて、勇作は憧れのBMWのドアを開けて運転席に腰を下ろす。横には紫色のBMWがあった。そっちはセダン・タイプで新車みたいに輝いていた。
 BMWのハンドルを握ってみた。目の前にスピード・メーターがあって、その両サイドにはエアコンディショナーのダクトが並ぶ。操作するスイッチ類が多いことは確かだが、なんらフォルクス・ワーゲンのゴルフと変わらない。でも何となくプレミアム・カーとしての重々しい雰囲気が伝わってくる。いい感じだ。走らせたら、どんな感動があるんだろうか。期待してしまう。官能的なエンジンというヤツを味わってみたいものだ。気持ちは決まった。これを買う。首を回して後部座席を確認する。少し狭い印象だが、これは2ドアだから仕方ないだろう。
 「エンジンを掛けてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
 勇作はイグニッションを回す。一発で始動した。アイドリングの音に高級感があって、音楽のように耳に届く。素晴らしい。BMWを手にしようとしている幸福感を覚えた。
 シートは黒っぽいファブリックだが、これでいい。レザーシートは、夏は熱くて冬は冷たいと聞いてから興味をなくした。
 「どうですか、なかなかいいでしょう?」
「うん。悪くない」勇作は応えた。
「気に入ってくれて嬉しいです」
「買うよ。いい車だ」
「有難う御座います。コンディションは文句ないですから」
「見て分かるよ」
「じゃ事務所の方へ」
「うん」買う意思を表明した。これから値段交渉だ。 
 斎藤勇作は運転席から外へ出た。ギラギラと太陽の光を反射する紫のBMWが正面だ。ちょっと気になった。「こっちは新車なんですか?」自然と言葉が口から出た。
「いいえ、7年落ちの中古です」
「でも相当に程度が良さそうだね」
「ええ、前のオーナーが大切に扱っていたみたいで。それと2年の車検が付いてます」
「幾らだい?」安くはない、と思った。
「120万円です」
「えっ?」
 予算よりも100万円も安い。勇作の気持ちは一気に揺らぐ。紫のBMWを見る目が変わった。「ちょっと、待って」
 ミスティック・ブルーのBMWにしたように入念にチェックを始めた。こっちはキャメルのレザーシート仕様だった。ボンネットも開けてもらう。文句はない。素晴らしい。運転席に座ってみる。
 やっぱり、いいな。レザーシートには高級感があった。こうして見るとセダンていうスタイルも悪くない。大人っぽい感じで良かった。ただしシフトがマニュアルじゃなくてオートマチックだった。スポーティさに欠ける。オレらしくない。
 しばらく勇作は考えた。板垣順平は黙って待っててくれた。「やっぱり青い方にします」紫という色も自分に合わないような気がしたからだ。7年落ちという古さも気に入らない。
「わかりました」
 事務所の中で値段を交渉した。下取り車がなくて現金で買うので少しばかり安くしてくれた。
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