アンチテーゼを振りかざせ
Epilogue

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「な、なんでこんな時間にいきなり来るの…!」


ピンポーン、とインターフォンを鳴らせばドアはちゃんと開けてくれるくせに、玄関先で開口一番、文句を言われた。


「…ちゃんと今から行くってLINEしたけど。」

「もうマンションの下まで辿り着いてからのメッセージは、全然意味ない。」


はあ、と溜息を漏らして、そのまま廊下を歩いていく後ろ姿はいつも通り、オーバーサイズ過ぎるトレーナーにスウェットのズボン。


「今日、遅かったね。ご飯は?」

「食べてない。」

「なんか作る?」

「んー…、」

「何その返事。」


振り返って俺にそう注意して、多分サイズがデカくて自ずとずれがちなメガネをちょっと上げた紬は、前髪をピンでとめて無防備なおでこが余す所なく見える。




無事に就職した俺は、初っ端から引き継ぎも色々とあって、今は割と残業も多い。

でも今まではタイムを上げるために使ってきた知識が、別の形で活かせるのだということを考えたことも、考えようともしなかったから。


結局俺は、走ることも含めて、
スポーツに関われることは楽しいし、好きらしい。

流石に選手に戻ることはないけど、時々休日にランニングすることも始めた。


それがどんな時も揺るがずに、
好きだと言えなくても。

たまには辛くなったり、逃げたくなっても。



『梓雪が走れない時は、
私が代わりに走るから、大丈夫。

このジュースは、
“今までよく頑張ったね“代でも、
“ここからまた、頑張って“代でも、
もう、何でも良い。』


多分、この女はいつでも変な理由を付けて、
炭酸ジュースを渡して笑ってくれる。




「…何してんの。」

靴を脱いで部屋にあがると、リビングに人影は無く。

そのまま奥に進むと、女は少し狭めのウォークインクローゼットの空間の中で、だるだるのトレーナーを脱ごうとして、手を裾にかけていたところだった。


「ちょっと、なんで入ってくるの…!」

「……俺これ、誘われてる?」

「ちがう…!!」


電気もついてない薄暗い空間で、
服を脱ぎ出す彼女に当然過ぎる疑問だと思うけど。


気まずそうに服を正して、そのまま俺を置いて
足早に出ていこうとする紬を逃がす筈が無い。



「紬、何してたの。」

腕を掴んでしまえば、あっさりとその足は止まる。


「……服。」

「服?」

「流石に、もうちょっと可愛いトレーナーにしようかと思って……、」


ぽつん、と目線も合わせずに白状された言葉を理解すると、口角がゆるりと上がってしまう。

というか結局、またトレーナーに着替えるのかよ。



「俺もうとっくの前から、その干物姿知ってるけど。」

「……そうだけど。

梓雪には全部バレてるし、隠したいとかじゃ無いけど…、

可愛い服装して会いたいって気持ちも、ある。」

彼女だし、と耳に相当意識を向けないと拾えないくらいのボリュームで告げられたそれに、なんとなくもう限界は迎えている。



なんなんだ、本当にこの女は。


「俺は紬のぜんぶが可愛い。残念ながら。」


鼻を軽く摘みつつ、そう言えば暗い中でも照れて赤みを帯びる顔に気づく。


「…残念ながらって、なに。」

「というか、
可愛いとか言われ慣れてるんじゃないの。」


それはそれで、腹立つけど。

俺の不服な声の質問に、フレーム越しに大きな瞳をぱちぱちと瞬いた紬は、困ったように表情を崩す。


「…全然、違う。

全てまるごと受け止めてくれる人なんか、いないってずっと思ってたから。
梓雪の言葉は、他とは比べたりできない。」


___そのくらい、嬉しい。

と、ちょっと震えた声を出しながら笑った。
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