庵歩の優しい世界



 そこで、ふと珠手が我にかえった。



 馬乗りになったまま見下ろしてくる、この状況の異常さに気づいたらしい。


そのうち顔を真っ赤にして「ごめんっ!」と謝る。

そういう風に取り乱す珠手を、私は初めて見た。

「ごめん、びっくりしたよな! ………何やってんだよ、俺は」

手の甲を口にあてて、慌てる珠手。




 私はと言うと、ポカンとしていた。
今のはなんだったんだ、という思いと、手の中でくしゃくしゃになった『もうこはんバンザイ』の文字が見られずに済んだという謎の達成感に包まれていた。



 珠手がおずおず「仕切り直していい?」と言ったのを合図に、私たちはいつも通り、


お酒を飲み、

マリカーで遊び、

呪いのビデオを見て過ごした。



素直に楽しかった。



なぜか珠手はいつも私の苦手なホラー映画を借りてきて、存分に怖がらせようとしてくる。これはなんの嫌がらせだろう。


「怖かったらくっついてもいいぞ」

珠手が言ったのと同時、テレビはザッピングをはじめる。とうとう、お出ましか!

「ちょ、井戸!井戸! た、珠手、井戸!」

「全然聞いてねえし……」


貞子は髪を歌舞伎役者よろしく振り乱して、井戸から「こんにちは」してみたり、排水溝に髪の毛をつまらせたりしていた。



ホラーは苦手だけど、嫌いじゃない。


副作用にお風呂に入ってる時に鏡を見れなくなったり、夜道に背を向けるのが怖くてバック走行で帰宅する羽目になるけれど、ちょっと好きなのだ。


「怖いなら見なければいいのに」

珠手は眉を下げて笑う。

「それ借りてきた人が言う?」

「だって、庵歩は好きだろ? ホラー映画」


「まあね」

私は肩をすくめた。

「苦手だけど、なんか好き。よくわかってるね私の事」

こういう風に相手が好きなものを覚えておくことが、モテる秘訣なのかもしれないなと珠手を見ていると思う。


「お前のことはちゃんと見てるから、知ってる」


珠手はDVDを片付けながら言った。少し背中が寂しそうに見えたのは気の所為か。



 帰り際、珠手は「やっぱり、何隠したか、聞いていい?」と言った。



私は一瞬なんのことか分からなかった。『もうこはんバンザイ』のことをすっかり忘れていた。



珠手は私と違って、白熱したレースを繰り広げているときも、

貞子的幽霊がヒステリックにポルターガイストを起こしているときも、

そのことがずっと気になって仕方なかったようだった。



思えば、たったこの紙切れ一枚で私の好感度が下がるとも思えなかったし、

その前から私は女の子として欠けているところがあったから、意地でも隠しとおす必要もなかった。




 私はその旺盛な好奇心に完敗して「もうこはんバンザイ」と正直に白状し、手を広げ、珠手を送り出した。


私のそれはほとんど「もうこはん降参」のポーズだった。


 珠手はあんぐりと口を開けた。


「………やばい、余計分からなくなった」


そう言って珠手はとぼとぼ帰って行った。


───これが福沢家の荷解きを手伝う数日前の話。






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