愛することを忘れた彼の不器用な愛し方
日下さんの家に入るのは初めてだ。エントランスまでは来たことがあったけれど、その先は未知の世界。

ここに、香苗さんと住んでいたのかな。

そう思うと、ここから先は入ってはいけない領域のような気がして緊張でドキドキと鼓動が早くなった。

そんな私の緊張をよそに、日下さんはどんどん進んでいく。前に来たときには乗らなかったエレベーターへ乗ると、狭い空間に二人きりになった。エレベーターの上がる無機質な機械音だけが、やけに耳に大きく響く。

ほんの何十秒の世界なのに、無言でいることが果てしなく長く感じられた。

玄関が開けられると、入るように促される。

「えっと、おじゃまします」

きちんと挨拶をしてから足を踏み入れた。
玄関をくぐった先はリビングが広がっていたが、生活感があまり感じられない。なんだか寂しいその空間は、香苗さんの面影すら見受けられない。

───再入院の前に香苗は持ち物を全部処分してて。俺には何も残してくれなかった。何もないんだよ。

ふと思い出される言葉。
私はまだ、香苗さんのことをよく知らない。
日下さんから聞いたのはほんの一部だ。一緒にここに住んでいたのかどうかすらも知らない。もしかしたら引っ越したかもしれないし。

「あの、日下さ……んんっ!」

カバンがドサッと音を立てて私の手から滑り落ちた。強引に奪われた唇は息をすることを許してくれない。
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