若女将の見初められ婚

思いがけない機会はすぐに訪れた。

『橘さんがな、店を閉めるそうや』

親父が仕事の伝達事項のように伝えてきた。

『橘さんって小物屋のか?』

『そうや。この時世で和装の小物一本では難しいわな。橘さんは腕のいい職人やから勿体ないが』

親父は、残念そうに溜め息をついた。この手の話はそこら中に溢れている。和服関連のお店が生き残るのは難しい世の中だ。

でも、俺にとっては、そこら中に溢れてる話ではなかった。

橘さんが店を閉める?
志乃ちゃんの家の店が失くなる?

優しげな顔や、苺大福を美味しそうに頬張る顔が甦る…

「たちばな」が閉まるなんて、志乃ちゃんがどんなに悲しむことか。

俺はいろんなことを一瞬で考えた。

『親父、「たちばな」に介入してええか?店は潰ささへん』

『なんやて?橘さんが店を閉めるんは残念やけど、他人の店やぞ。お前、何するつもりや』

怪訝な顔で問われた。

『何ができるか今から考える。
金を動かす必要があったら、俺個人のから出す。「いわくら」には迷惑かけへん。黙ってみててほしい。

それと、「たちばな」のお嬢さんを嫁にするから』

『お、お前何を突然に』

父が狼狽した。

『「たちばな」のお嬢さん、言うたら志乃ちゃんやったか?恋仲やったんか?』

『いいや、志乃ちゃんとはまだ何の関係もない』

残念ながら。

『関係がないのに嫁に貰うって』

呆れたように父が言った。

『何をしようとしてるんか全くわからんが、お前の金でやるなら口出しはせん。だが、相手さんの嫌がることはするなよ』


それから俺は、知り合いの弁護士や税理士に相談して、「たちばな」を立て直す方法を考え出した。

同時に、志乃を手に入れた訳だが…

強引に事を運んだ感は否めない。
いや。強引どころか、優しい志乃が店を助けるために、結婚せざるを得ない状態に追い込んだ。

志乃は今の生活に満足しているのだろうか。


「しの君、ご飯できたよ」
柔らかい声が聞こえる。

着替えを終えて戻ると、テーブルには美味しそうな朝食が並べられていた。


俺の好物の出汁巻き玉子には、たっぷりと大根おろしが添えてある。志乃が作る出汁巻き玉子は、箸を入れると出汁が溢れるくらいにフワフワだ。

冷蔵庫にはいつも常備菜が入れてあり朝食に出されるが、今日はきんぴらごぼうのようだ。
それと定番の柴漬け。具だくさんの味噌汁。

まだ慣れない若女将の仕事に追われながらも、俺の健康を考えて食事を整えてくれる。



「今日は久しぶりに出かけるか」
朝飯を食べながら誘ってみる。

パッと笑顔になった志乃は、
「嬉しい!行きたい!」と喜んだ。

「志乃、今、幸せか?」

嬉しそうな笑顔の志乃に、聞かずにはいられなかった。

何の脈略もない突然の問いかけに、志乃はきょとんとしたが、「シアワセデス」と照れたように呟いた。

「そうか。昼飯は何食うてもいいぞ」

もはや支離滅裂な俺の会話にも、どういう話の流れ?と笑いながら、わーいと喜ぶ。

志乃の笑顔が堪らなく愛しい。

そうか、幸せか。
それならよかった。
じゃあ俺は、その幸せをずっと守っていくだけや。

俺も笑顔を返した。

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