とある企業の恋愛事情 -ある社長令嬢と家庭教師の場合-
第6話 怒りの記憶
 当時、本堂の両親は『本堂商事』という会社を経営していた。従業員は十人にも満たない小さな商社だ。

 決して贅沢な暮らしではなかったが、不自由はなかった。我慢を強いられた覚えもない。会社を経営しているという点以外、ごく普通の家庭だった。

 しかし、仕事のため父親は忙しく、あまり家に帰らなかった。母親は持病のため体が弱く、会社の事務を手伝っていたが、運営はほとんど父親に任せていた。

 当時小学生だった本堂は、学校が終わるとまっすぐ帰宅する「いい子」だった。体の弱い母親を放って置けなかったからだ。

「一、お友達と遊んでらっしゃい。母さんは平気だから」

 背中をさすると、そう言って母、麗花(れいか)は本堂を外へ出そうとした。

 麗花は持病のためたまに発作を起こした。それはいきなりどうこうなるものではなかったが、幼い本堂はそれでも気掛かりで外に出られなかった。

 そんな我が子を見かねたのか、麗花は本をたくさん買った。麗花の傍、ずっと本を読んでいたのを憶えている。

 その本のおかげか本堂は人より賢く育った。いい成績を取ると麗花はとても喜んだ。

「一は本当に賢い子ね。将来はきっと、色んな人の役に立てるような凄い人になるわ」

 そう言って麗花が笑うと、本堂は嬉しかった。幼いなりに会社と社員を大事にする両親を尊敬していた。

「価値のある人間になりなさい」。両親はよくそう言った。

 幼い頃はそれがどういう意味がわからなかった。賢くなることなのか、優しくなることなのか、他人に必要とされることなのか────。

「おかあさん、どういう意味?」

 その意味が知りたかった本堂は、何も考えず麗花に尋ねた。

「人間の価値は何で決まると思う?」

 その質問は子供には少々難しかった。本堂は答えられなかった。

「一が全てをなくした時にきっと分かるわ」

 麗花はそう言って、本堂の頭を撫でた。

「なくしたとき? なにを?」

「その人が持っているものを全てなくした時に残る物。それがその人の価値よ」

 難しい言葉だった。好奇心旺盛な本堂は何度も尋ねたが、麗花がその意味を教えてくれることは一度もなかった。

「一に愛する人ができたら、きっと理解できるようになるわ」

 そう言ってただ笑った。その表情はとても幸せそうに見えた。
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