とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 その数日後のことだった。美帆が仕事をしていると、不意にオフィスの扉が開いた。入ってきたのは社長だ。

「杉野さん。急なんだけど午後三時から商談があるの。応接室を予約しておいてもらえないかしら」

「承知致しました。どちらの企業が────」

「ああ、知り合いだから大丈夫よ。杉野さんも同席してね。書記をお願いしたいから」

 社長は早口に言うとバタバタと慌ただしく出ていった。よほど急いでいるらしい。

 美帆はすぐに応接室を手配した。

「珍しいですね。社長が商談って。いつもは常務が応対してることが多いのに。よほど仲がいいんでしょうか」

 向かいの席に座った胡桃坂がもの珍しそうに言った。

 美帆もそう思った。そもそも、こんな大企業の社長相手にわざわざ直接商談を持ってくる相手は知れている。きっと相手も大企業の役員かなにかだろう。

 美帆は受付嬢の時から応接室に何度も出入りしているため対応も慣れている。だから頼まれたのかもしれない。



 約束した時間の二十分ほど前、美帆は準備をして社長室の扉を叩いた。

「社長、そろそろお時間です」

「そうね、もう行かないと」

 社長は椅子から立ち上がり、美帆と共に応接室に向かった。

「珍しいですね。社長が自ら商談されるなんて」

「そうね。いつもは人任せにしてることが多いから」

 応接室に着くと、まだ相手は来ていないようだった。

「先に座って待ってましょうか」

 待つこと数分、応接室の扉を叩く音がした。扉の外で失礼しますと声がした。どうやら来客は男性らしい。

 美帆はどんな相手だろうかと想像した。そして扉が開いた。

「どうも、遅れて申し訳ありませ────」

 その男性の言葉は不自然なところで途切れた。男性の視線は美帆を見つめ、美帆もまた男性を見つめたていた。

 ────どうして、文也さんが……。

 美帆は挨拶するのも忘れて呆然とした。なぜ文也がここにいるか全く理解できなかった。

「どうぞ、津川さん」

 社長は文也に椅子に座るよう勧めた。ようやく美帆はハッとして直前に用意していたお茶を湯呑みに注いだ。

 美帆は文也に背を向けたものの、全くもって落ち着かなかった。社長は商談だと言っていた。なのになぜ文也が来るのだろう。

 津川フロンティアは契約を切られたのではなかったのだろうか。こんなところで呑気に商談するほど社長と親しい間柄ではないし、むしろトラブルを起こしたのだから嫌煙されているはずだ。

「藤宮社長、本日はお時間をいただきありがとうございます」

「いいえ、お呼びしたのはこちらですから」

 背を向けている間に二人は和やかに挨拶を始めた。美帆は益々混乱した。

「では、御社とのご契約のことですが────」文也が話し始める。

「ええ。事前にお話しした通り、専売契約ということで勧めさせていただきたいと考えています」

 ────専売契約!?

 美帆はそんなまさか、と驚いた。ついこの間までは賠償金のことを話していたはずなのに一体全体どうしてそんなことになるのだろう。

 タイミング悪くお茶が出来上がってしまい、美帆は気不味いままお盆を持って二人のところへ向かった。

 つい文也の方を見そうになる。だが、必死に目線を合わさないようにした。

「片手で申し訳ございません」

 慌て気味に言うと、文也は小さな声で「ありがとう」と関西弁訛りで感謝を口にした。

 たったそれだけのことなのに美帆は嬉しかった。

 あの時のように冷たい目ではない。以前自分に向けてくれていた優しい声だ。

 社長の前にお茶を置き、少し離れた席に腰掛ける。呑気に会話を聞いている場合ではない。自分は書記係なのだから。

 とは言え、会話はほとんど録音しているため美帆がすることは限られている。

 後々使うことになるであろう書類や印鑑などは横に置かれているし、たった二人しかいない商談なら自分が出る幕はないのではないだろうか。

 社長はどうしてこんな席に呼んだのだろう……と思ったが、もしかしたら文也と会わせる気だったのかも知れない。

「……うちとの契約で社員の皆さんが反対されたんじゃないですか」

「そうですね。常務には特に大反対されました」

「ではなぜ?」

「人を見る目はある方だと思っていますので。けど、それほど優しい契約内容ではないでしょう?」

「……そうですね。これはかなり、キツい内容です」

「それとこの間お話ししたことを守って頂けるのでしたらうちとしては構いません。賠償金を頂くよりよほど有意義です」

 社長はにっこり笑い、差し出した書類に印鑑を押した。

 どうやら商談の内容は事前に二人で話し合っていたらしい。細かいことについては何も喋っていなかった。

 なんだか、あの事件などなかったみたいで拍子抜けした。あの時二人は睨み合っていたはずだ。この数週間の間に何があったのだろう。

 商談は小一時間ほどで終わった。美帆は気を張り詰めていたせいかどっと疲れた。文也と一緒の空間にいるだけで緊張してしまう。

「杉野さん。津川さんを入り口まで送って差し上げて」

「え……」

「用事があるなら構わないけど」

 美帆は相変わらず文也の方を見れなかった。用事などない。だが、送るとなると二人きりになってしまう。気不味い。それはとても気不味い。

 だが、これを逃したら文也と話す機会はないのではないか。迷った挙句、丁寧に答えた。

「────承知致しました」

 一足先に社長が部屋から出てしまい、応接室には美帆と文也の二人が残された。気不味い沈黙が流れた。
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