とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 ────なんて、結婚のこと考えてると落ち込むんだよね。

 急ぐとロクなことにならないし、かといって悠長に構えていると噂通り生き遅れてしまう。

 仕事を終わらせ、美帆は悶々としながら文也との待ち合わせの場所へ向かった。

 季節は秋に差し掛かろうとしていた。仕事もすっかり慣れてきて、秘書課にいることも楽しくなってきた。

 もし文也と結婚することになっても仕事を辞めるつもりはない。受付嬢の多くは寿退社するか出産を期に仕事から離れてしまう女性がほとんどだが、その問題も先日解消された。

 だから結婚で出世を阻まれることはないだろう。

 ────文也さんと結婚かぁ。

 美帆はぼんやりと考えた。楽しいだけで恋愛できる時期はとうに終わった。これからはもっと先のことを考えなければならない。

 待ち合わせ場所に行くと既に文也がいた。立っている文也を見ると、やっぱり格好いいと思う。文也は綺麗な男の部類に入るが、性格はどちらかと言えば荒々しく、見た目に反している。そんなところも気に入っていた。

「文也さん、お待たせしました」

「急でごめんな」

「いいえ、嬉しいです。文也さんとデートなんて久しぶりですから」

「それ、嫌味?」

「違います。普通に喜んでるんです」

 美帆は文也と二人で目的もなく歩いた。文也は特に用事はなかったらしい。ただ単に二人でいたかっただけなのかもしれない。

 しばらく歩いた時だった。文也は明後日の方向を見ながら口を開いた。

「あのさあ」

「はい」

 だが、次の言葉はない。美帆は文也が見ている方向を向いた。だが、視線の先にあるものはただの電柱だ。

「なんですか?」

「美帆は……いや、やっぱええわ」

「なんですか。そこまで言われたら気になるじゃないですか」

「いや……美帆は、俺が何歳か知ってるやんな?」

「二十九歳でしたよね?」

「うん。そうやねんけど……」

「どうしたんですか。もしかしてサバ読んでたとかですか?」

「なんでやねん! いや、ちゃうって。俺は正真正銘二十九歳やけど……その……」

 文也はなんだかもじもじしている。言いたいことがあるらしいが恥ずかしいのかなんなのか、言葉にできないらしい。

 ははあ、これは夜のお誘いだろうか。だが、それで歳を聞くのは変だ。それとも、誕生日が近いのだろうか。そう言えば文也の誕生日がいつか聞いていなかった。

「お誕生日、どこかでお祝いしましょうか? せっかくですからちょっといいお店でも予約して、どこか遊びに行くのもいいですね。文也さん行きたいところは────」

「誕生日じゃないねん」

「え?」

「ちょっとついて来て」

 文也はそのまま美帆の手を引いて歩いた。

 いったいどこへ連れて行くつもりなのだろうか。引っ張られるまま歩いていると、文也はやがて百貨店の中に入った。

「百貨店に用事でもあるんですか」

 だが、文也から返事はない。そのまま二階に上がった。ブティックとアクセサリーのフロアだ。

 美帆はふと思った。もしかして、文也は自分の誕生日プレゼント、もしくは記念日のプレゼントを買おうとしているのではないかと。

 だが、自分の誕生日はまだ当分先だし、記念日もそうだ。

 文也は足をピタリと止めると美帆の方を向いた。

「美帆はどこのブランドが好きなん」

 平静を装ってはいるが、なんだか顔が必死だ。文也はこういうものを買いに来たことがあまりないのかもしれない。

「好きなブランドは特に……その時気に入ったものを買っているので、別にこだわりはないですよ」

「……そうか」

 文也の眉間に皺が寄る。どうやら、余計に文也を悩ませてしまったらしい。

 何か贈ろうとしているのは間違いない。もしかしたら文也は今まで何も贈ったことがないのを気にしているのだろうか。別に大したことがなかったから貰えなくても気にしていないが、それ以外でこんなフロアに用事などない。

 あるとしたら、結婚する時か婚約する時ぐらいだ。

「あの、別に気にしないでくださいね。私別に光物が欲しいわけじゃないですし、高いものなんてもらっても着けて行くところがないですから」

 気を使ってそういうと、文也はより一層ショックを受けた顔をした。

 なんだろうか。何か言っただろうか。素直に受け取った方が可愛げがあるのかもしれないが、こういうもので喜んでいたのは二十代前半のうちだけだ。

 三十代になると実用的かつ合理的なものの方が徳だと考えるようになった。だからこんなものをもらわなくても別にいい。のだが────。

 文也は深い、深いため息をついた。

「正直に言うわ。俺、美帆と結婚したいねんけど美帆はどう思ってるん」

 店内のBGM、あとは売り子の上品な声。それに混じって聞こえた文也の声は、煌びやかなフロアに似つかわしくない真面目な低い声音だった。

「ええっ」

 そしてフロアに響く美帆の素っ頓狂な声。

 美帆は何よりも恥ずかしさを覚えた。アクセサリーのフロアには人がたくさんいるし、近くには店員もいる。よくこんなところでそんなことを口にできるものだと思った。叫んだ自分も自分だが。

「……なんでそんなに驚くん」

「だ、だって……こんなところでいきなり言われたら驚くに決まってるじゃないですか。大体今までそんなこと一度も……」

「別に考えてなかったわけちゃうよ。ただ、その方が美帆に変な男が寄って来んやろうなとは思っててん」

「だからって別に結婚しなくても……」

「じゃあ、美帆はしたくないん?」

「そういうわけじゃ……」

「俺はそれだけで結婚したいわけちゃうで。一応、それなりに今後のことは考えてる。俺は仕事続けるけど、美帆も仕事したいならしたらええし、そうじゃなくても別にええ。ちゃんと考えて欲しいねん」

「……分かりました」

「けど急かすつもりはないから。ただどう考えてるか知りたかってん。美帆はなんも言わんし、俺と結婚したいんかどうかも分からんから、聞きたかっただけ」

 考えていなかったわけではない。だが、急かすと鬱陶しがられるだけだと思ったからそのことは口に出さなかった。

 文也はまだ二十九歳だ。これからいくらでもいい女性と出会うだろう。多少結婚するのが遅くなっても問題ない。

 だが、自分は違う。だからもしするなら早い方がいい。

 しかし美帆は本当にそれでいいのだろうか、と思った。結婚後のことがまるで想像できないのだ。

 周りに既婚者はたくさんいるが、なにせ生活スタイルが違う。文也はサラリーマンではない。おまけに津川商事の次男坊で、結婚したいからします、というわけにはいかないだろう。

 漠然と考えていただけなのに、いきなり現実問題になってしまった。

 美帆は周囲にいる女性客を見回した。誰も彼も楽しそうな顔をしている。だが、とてもそんな楽しい気持ちばかりにはなれなかった。
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