とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 グラスの中の氷がカランと音を立てる。普段はあまり飲まないリキュールをロックで頼んだのは気分がやさぐれているためだ。

「終わった……完全にフラれた……」

 文也はカウンターに伏せ、鷲掴みにしたグラスを見つめた。

 また美帆に振られ、落ち込んで酒を飲みに来たものの、酒を飲んでも一向に気分は良くならない。それどころかどんどん感傷的になるばかりだ。それに四杯目を頼んでからは吐き気の方が強くなってきた。

「ちょっと、いい加減にしたら? それ以上飲んだら潰れるわよ」

 隣に座っていたカヲリが苦言を呈す。カヲリはまだ一杯目を飲んでいる途中だ。

 カヲリに食事に誘われ、愚痴を話しているうちにいつの間にかこんなことになってしまった。だが、カヲリの誘いに乗ったのは間違いだった。余計に美帆のことを思い出してしまう。

「うっさいわ……どうせ誰も心配なんかせえへんねん」

「それにしても、また会いに行くなんて思わなかったわ。……それにまたフラれるなんて」

 この人生で、一体何度美帆にフラれるのだろうか。願わくばもう終わりにしてほしい。

「……そんなに愛されてるなんて、美帆さんが羨ましいわね」

「……なんて?」

「どうして……そんなに好きになれるの。その人だって、他の人みたいに自分のことを騙してるとか考えないの?」

 憐んでいるのだろうか。カヲリの瞳は悲しげだ。みっともなくフラれ続けている文也に同情しているのかもしれない。

「大事にしたからって、その人が同じだけ好きになってくれるとは限らないじゃない。一所懸命他人のこと考えたって、他人がそれを自分に返してくれるわけじゃない。自分の気持ちが無駄になるとか考えないの?」

「────俺は」

 不意に喉の奥から何かが込み上げる。文也は慌てて立ち上がりトイレに向かった。

 洗面器に向かってしばらく突っ伏した。完全に飲み過ぎだ。普段から大酒を飲まないのに調子に乗ってロックなど飲むからだ。

 胃の中のものを吐き出したあと、しばらく落ち着くまで待った。

 ────ざまぁないな。

 自分自身にほとほと呆れた。こういうだらしないところがあるから美帆に愛想を尽かされるのだ。結婚以前の問題だ。

 それでも、情けない時にまた思い出す。美帆のせいで悲しんでいるのに、ここに美帆がいたらいいのに、と。

 他の客がトイレに入ってきたので、いい加減長居を止めて外に出た。カウンターからカヲリが心配げに見つめていた。流石にもう飲む気にはなれない。それに気分が悪い。

「出ましょう」

 言われるまま頷き会計を済ませて外へ出た。

 吐き出したものの胃のムカムカは治っていない。一晩経てば治っているだろうか。明日は特別目立った仕事はないが、二日酔いの状態でこなせるか分からない。

「顔色が悪いわ。どこか座って休憩しましょう」

 文也は適当な植え込みの淵に腰掛けた。腰を落ち着けると安心したが、動くとまた吐き出しそうで恐ろしい。当分は動かない方がいいだろう。

 カヲリもその隣に座った。

「……迷惑かけて悪かった。もう飲まへんわ」

「……もうやめたら?」

 項垂れた文也の耳に静かな声が届いた。街を行き交う喧騒はそこそこうるさいが、それでもカヲリの声はよく聞こえた。

 文也は顔を上げた。

「またフラれて、傷付くのはあなたなのよ。彼女だってもうあなたに興味なんかないんじゃない。諦めて他に行った方が楽よ」

 ────そうかもしれない。追いかけても捕まえられないのに意味もなく走って疲れて。なんの意味があるだろう。

 美帆は自分などいらない。だから捨てた。そんな冷たい女性にいつまでもしがみついていたって先には進めない。

 だが、いまだに信じられないのだ。

 あの優しかった美帆があんなことを言うだろうか。いつも励ましてくれていた美帆が。そばにいてくれた美帆が。どんなに傷付けても信じてくれていた美帆が、あんなにも簡単に離れてしまうなんて。

 美帆が遊びで付き合ったなんて思えない。美帆はそんな女ではなかった。

「……違うで」

「え……?」

「俺は確かに、美帆とおると楽やった。でも、だから一緒にいたわけちゃう」

 最初から楽だったわけではない。楽だと思っていたが、まったくそうではなかった。

 それでも、一緒にいたいから努力した。だからその場所が居心地いいものに変わった。頑張ることが楽しくて、一緒に成長できた。生きている実感が湧いた。

「逃げるなんて誰にでも出来んねん。でも俺は……美帆とおりたいから努力したかった」

 終わった話だ。あんなに拒絶されて、これ以上一体どう努力しろというのだろう。もう完全に終わってしまった。美帆に嫌われた。

「────私じゃ駄目なの?」

「……?」

「お見合い話が出た以上、私達にも縁はあったわけでしょう。お互い逃げ回って回避するより、このままうまくやる方がいい。そりゃ、自分で相手を見つけられればそれに越したことない。でも、現実はうまくいかないじゃない」

 そうかもしれない、と思った。美帆のことは望み薄だ。頑張ったって嫌われるだけならこのまま思い出にしてしまう方がいいのだろうか。いつまでも中高生のような恋愛などせず、割り切った関係の方が楽かもしれない。

 カヲリはお互いの立場を分かっている。多分、パートナーとしても協力者としてもいい相手だ。きっとうまくやれるかもしれない。

 だが────。

「……俺は誰も好きにならんで。それでもいいんか」

「いいわよ。私だって簡単に人のこと好きにならない。別に、結婚相手なんて必ずしも好き合ってないといけない理由なんてないじゃない。そういう夫婦なんて山ほどいるもの」

 真っ先に両親のことを思い浮かべた。あの二人には恋愛感情などない。ただ利害が一致しているからお互いを選んだ。二人から聞いたわけではないが、見ていれば分かる。

 至極当たり前だ。愛情なんてない家庭で育ったのに、愛情が理解できるはずがない。生きるのに必死だったから他人の感情も分からない。美帆が何を考えていたかも。何を望んでいたかも。

 つくづく、温かいものとは無縁だったのだ。

「……来週、両親があなたのご両親と会うって言ってたわ。あなたも……来る?」

 死んでも会いたくない人間がいると分かっていた。だが、もはやどうでもよかった。どうせ話すことは決まっている。

 この見合いを終わらせれば少しはあの父親の思う通りに生きられるのだろうか。褒められることもあるだろうか。

 いや────それはないだろう。これは自分の役目で、やるべきことだ。生まれた時からあてがわれた役目。

 結局戻るところは一つなのだ。自分が帰る場所は、そこしかない。
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