とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 食事会は滞りなく終わった。正直食事の味なんてしなかったが、食事が目的ではないから別にどうでもいい。

「文也。こちらに来るのは久しぶりだろう。本社に寄って行きなさい」

 レストランから出たところで雅彦が言った。

 断る権利はないのだろう。どうせこのまま帰ることなどできやしない。文也は諦めて返事した。

 本社に立ち寄るのはそれこそ雅彦に会うのと同じぐらい久しぶりのことだった。家を出てからは寄り付かないようにしていた会社だ。まさかまた来る羽目になるなど思わなかった。

 雅彦も文也もスーツを着ていたから仕事着と変わらない。雅彦の姿を見た社員達は慌てたように頭を下げていた。どうやらここでも独裁者しているらしい。

 そのままエレベーターで社長室に向かった。いつか訪れて以来の社長室だ。相変わらず印象は変わらない。

 偉そうな社長椅子に座ると、雅彦は立ったままの文也に話し掛けた。

「お前が藤原の令嬢とうまくやるとは思わなかった。仲良くやっているじゃないか」

 どうやらこの展開は雅彦のお気に召したらしい。珍しく上機嫌だ。勿論、それを見越してカヲリとそう思われるように振る舞っていたのだが。

「藤原会長はお前を跡取りに考えているようだ。うまくやれよ」

「……じゃあ、俺の会社はどうなるねん」

「そんなもの、他の者に任せればいいだろう。あんな子会社をさわざわざお前がやる必要があるか」

 文也は声も出なかった。結局、手放すことになるのだ。恥をかいて人を傷付けてまで守ろうとしたものを。どのみちこうなるのなら、あそこで何をしても同じだったのではないだろうか。それなら雅彦に刃向かわずいう通りにしていれば良かったのかもしれない。

 ノックの音がした。扉の外で「社長、失礼いたします」と声がした。

 程なくして丸井が入ってきた。丸井は文也がいると知らなかったのだろう。顔を見て驚いている様子だった。

「これは……文也様がいらっしゃるとは知りませんでした。お久しぶりです」

 丸井は丁寧に頭を下げたが、文也は無視をした。

 白々しい男だ。どうせ歓迎などしていない。丸井は雅彦から何もかも聞かされているだろうから、内心は嘲っているだろう。

 丸井は雅彦の近くに行くと、何か耳打ちした。

「文也、話は伝えた通りだ。少し会社を見てから帰りなさい」

「……ああ」

 どうせ社長の息子の自分が来たところで社員達は煙たがるだけだろう。文也は軽く頭を下げて社長室を出た。

 わざわざ大阪まで来たのにただ食事をしてつまらない話を聞いて終わりとは、時間の無駄だ。こんなことをしている暇があったら仕事をしていた方がよかった。

 だが、あの会社も誰かに譲らなければならない。

 しかし、せめて譲るのだとしたら納得できる人間に渡したい。社会人になって一人で立ち上げた会社だ。思い入れがある。適当にはしたくない。

 丸井と雅彦はそのことを話すのだろうか。文也はエレベーターの前まで来たが、引き返した。見合いは納得したのだ。せめて会社のことだけはちゃんとして欲しい。

 社長室の前まで行くと話し声が聞こえた。

『……ああ、では文也の会社はその者に任せるとしよう。そのように進めてくれ』

 扉の内からわずかに雅彦の声が聞こえた。文也は思わず扉に張り付く勢いで近付いた。

『それにしても思ったより事が進んだようだ。丸井、お前を東京に行かせた甲斐があった』

『はい。目下の悩みは文也様のことだけでしたからね。これで津川商事も安定するでしょう』

 カヲリのことだろうか。雅彦は事前に丸井を送り込んでいたのかもしれない。藤原家との縁談の橋渡しをしたのも丸井だろう。

『あの女は大人しくしているのか。小切手を受け取らなかったそうだが』

 ────小切手?

『はい。しかし問題ございません。あれから特に女の方から接触している様子はありません。自分の身の程がわかったのでしょう』

『ふん……それならいい。まったく、文也はつまらん女に入れ込んでどうしようもない息子になったものだ。あのまま放っておいたら面倒なことになった。藤宮の社員となど……何を考えているのか』

 藤宮の社員────文也はただその単語だけに反応した。

 雅彦の雑言などいつものことだ。聴き慣れている。だが、今の会話はどういうことだろうか。

 だが、分かることがある。今の会話は、美帆のことだ。

 ────まさか。

 頭の中に一つの仮説が浮かび上がった。

 なぜ美帆は突然態度が変わったのだろう。同棲する前は普通だったのに、終わりに近付いて急に態度が変わった。最初から結婚に賛成ではなかったにしろ、同棲している間は楽しそうにしていたはずだった。このまま二人でやっていけると確信するほど。

 もし、その間に美帆に何かがあったのだとしたら? 例えば、この二人が美帆を脅したとしたら? 金を掴ませて追い払おうとしたら?

 文也は我を忘れて扉を力一杯開け放った。

「美帆に何してん」

 雅彦と丸井は目を見開いて驚いたが、すぐにその瞳は侮蔑のものへと変わった。

 文也はズカズカと二人に歩み寄ると丸井に掴みかかった。ありったけの憎しみを込めて睨みつけた。

「どういうことやねん。全部説明せえや」

「ふ、文也様。落ち着いてくださいっ」

「お前が美帆になんかしたんやろ!」

 文也が叫ぶと丸井はひっと小さな悲鳴をあげて背中を丸めた。

「いい加減にしろ。元々はお前が撒いた種だ」

 文也の剣幕などものともせず、雅彦はいつものように太々しい態度だ。睨みつけても変わらない。反抗的な態度などいつものことだと思っているのだろう。

「当然だろう。お前が訳のわからん女に(たぶら)かされたのだ。それ相応の処理をしておかんと後々困る」

「それで、美帆に小切手渡して黙らせようとしたんかい。ヤクザのすることやんけ」

「その辺にしろ。お前は少々わがままに育てすぎた。然るべきところに収まってもらわんと家族全員が迷惑するんだ。いい加減わきまえて────」

 ────なにが家族やねん。

 文也は雅彦の顔に唾を飛ばしてやりたい気分だった。そんな言葉を雅彦が口にすることが滑稽に思えてならない。

 全て分かった。美帆はこの二人に言われて身を引いたのだろう。一体どんなことを言ったか知らないが、美帆は小切手なんて受け取るような女ではない。家族がどうとかそれらしいことを言って騙したに違いない。

 皮肉なものだ。本物の家族は自分のことなどお構いなしで平然と心を踏み躙る。感情のない人間(ロボット)と同じように扱われ、夢見ることも自分のために生きることも許されない。

 それなのに血の繋がっていない他人の美帆の方が余程自分のことを考えてくれているなんて。

「────アンタなんか家族でもなんでもないわ」

「……それは縁を切るということか」

「はっ……アホくさ。縁なんかとっくに切れてるやんけ。アンタが父親らしいことしたことが一度でもあったんか? たまに顔合わせたと思ったら罵倒するだけして、家の中に閉じ込めて、なにが父親やねん」

『アンタなんか父親とちゃうわ』

 ずっと心の中で思っていた。けれど言わなかった。怖かったのもある。それを口にすると、本当の家族が一人もいなくなってしまうような気がした。

 けれどもういい。自分を本当に思ってくれる人間は彼らではない。それが証明された。

「二度と、俺に関わんな。美帆にもや」

 文也は踵を返し、後ろで何か喚く雅彦を無視して社長室を出た。そのまま早足でエレベーターの前に行き、慌て気味にボタンを押す。手が微かに震えていた。慣れないことをしたからだろうか。

 スッキリした。だが、どこか後味が悪い。家族だったものを切り離したのだ。当然かもしれない。

 これからは、どんな援助も受けられないだろう。なにがあっても頼れないだろう。死ぬまできっと会うことはない。和解もできない。

 けれど────。

 エレベーターが音を立てて開いた。中へ乗り込み、一階のボタンを押す。

 時刻は夕方だ。急いで帰れば夜には東京へ着くだろう。文也はスマホを握りしめ、祈った。

 美帆は一体どんな思いで自分を切り離したのだろう。どんな思いでなにを願ったのだろう。もし彼女の望むものが自分の家族との平穏だったのだとしたら期待には応えられなかったことになる。

 彼女は自分が家族を欲しがっていると知っていた。だから、血の繋がった本物の家族を大事にして欲しかったのかもしれない。けれどそうではなかったのだ。

 確かに家族が欲しかった。けれど言葉のままではない。その言葉の通りではなく────本来そうであるべき人間のように、自分を大切にしてくれる人間が欲しかったのだ。心に寄り添ってくれる人といたかった。

 家族を切り捨てるのは辛い。それでも────。

「美帆────」

 孤独ではない。世界に一人でも、自分のことを大切に思ってくれる人がいたのだから。
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