とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 定時きっかりに業務を終わらせ、美帆は帰宅した。

 両手に持ったスーパーの袋には晩御飯のおかずとテレビのお供、それに酒缶。テレビにかじりつく準備はバッチリだ。

 これが至高の趣味だ。むしろ、これ以外に没頭できるものがない。

 買ってきたおかずをテレビの前で食べる。テレビの中では役者が動き回っている。今見ているのは探偵もののテレビドラマだ。

 ────当分、恋愛ものは見れないかな。

 幸い邦画は恋愛要素が少ないものが多いから有難い。一方洋画はイチャイチャシーンがわんさかあるが、人種が違うので割り切って見れる。韓国ドラマも大好きだったが、人間関係がドロドロしていて救いのない展開が多いので現在は封印している。

 そういえば、文也は自分のためにテレビを買ってくれたわけだが、見る人間がいなくなったら邪魔だけではないだろうか。

 せっかく大きなテレビを買ったのに勿体ないことをしたな……。などと、また思い出した。もはや何を見ても思い出すのだから忘れようなどと思うこと自体不毛だ。

 文也は結婚したらあの部屋を出るだろうか。新しい恋人と家具を買いに行って、二人で一緒に皿やカーテンを選ぶのだろうか。想像すると胸の奥がきゅっと苦しくなる。

 同棲している間、あちこち出かけたわけではないが、楽しいことはたくさんあった。文也の帰りが遅くても美味しそうにご飯を食べてくれれば頑張る気になれたし、テレビを見ていると横に座って、肩にもたれてきた。「恋人っぽいな」と言って嬉しそうに笑う文也が好きだった。

 画面を映していた視界がぼんやり歪む。俳優の姿が二重に見えた。

 思い出してはいけないと思えば思うほど、楽しい記憶が蘇る。

 同棲している間、色々なことを考えた。一人じゃやらなかったことも、文也と一緒だったらやってみたいと思えた。出不精だけど二人でキャンプも行ってみたかったし、車でどこかに出掛けてみたかった。一緒に海外も行ってみたい。また映画を見に行きたい。

「文也さん……」

 《《二人で一緒》》なら、楽しい生活になると思っていたのに。

 どうして自分は家族になれなかったのだろう。あの秘書の言う通り、文也には不釣り合いだからだろうか。自分がもっと大きな家の娘だったらどうにかなっていたのだろうか。文也を幸せにすることができたかもしれない。所詮たらればの話だ。

 その時、テレビの音に紛れてインターホンが鳴った。美帆はリモコンの一時停止ボタンを押して壁のモニターに近付いた。

「え……!?」

 だが、モニターに映った人物を見て驚愕した。

 ────な、なんで文也さんがいるの!?

 エントランスに立っているのは文也だった。スーツを着ているが、仕事帰りだろうか。いや、そういう問題ではない。

 なぜ文也が自分の家に来るのだろう。お別れの挨拶はしたはずだ。あれで完全に終わったと思っていた。

 だが、通話ボタンを押そうか押すまいか迷っている間にモニターの画面が切れてしまった。時間切れで機械が不在と判断してしまったらしい。

「ああっ、切れちゃった! どうしよう……!」

 何を慌てているのだろうか。このままお別れしたいならこれでいいのだ。自分たちには合う用事などない。

 けれど、どうして文也が尋ねてきたのか知りたかった。

 モニターの前で困っていると、またインターホンが鳴った。再び文也の姿がモニターに映る。美帆は恐る恐る通話ボタンを押した。

「……なんの、用事ですか」

『親父のことで話があるねん。入れて』
 
 美帆は首を傾げた。親父のこと────というと、津川社長のことだ。

 まさか、あの小切手の話だろうか。それともなんだろうか。また父親と喧嘩でもしたのだろうか。だが、だとしたらここに来る意味が分からない。

 しかし、どんな話であったとしても入れるべきでないことは分かる。もし文也と会っているのがバレたらまた家族の仲に亀裂が入ってしまう。

「帰ってください……もうお話しすることはありません」

『一回だけでええねん……頼むから話しさせて。どうしても言わなあかんことやねん』

 文也の声は切実だ。それに押されてつい負けそうになってしまう。開けてはいけないと分かっているのに、恋しさがそれの邪魔をする。

 解錠のボタンを押した。エントランスの扉が開き、文也が中に入ったのが見えた。

 どうして開けてしまったのだろうか。もう話すことなどない。会えば余計に辛くなるだけだ。せっかく嫌われていい感じに別れを決めれたと思ったのに、また嫌な女を演じないといけないのか。

 文也は走ったのか、思っていたよりも早くインターホンが鳴った。恐る恐る玄関に近付き、ゆっくりと扉を開ける。

 久しぶりに見る文也は少しやつれているように見えた。なんだか顔色が悪い。ちゃんと食べているのだろうか、なんて思ってしまう。

「津川さ────」

 声を発した直後、文也の体が体当たりする勢いでぶつかってきた。そのまま抱き締められて、身動きが取れない。

「いや……っやめて、ください! なんでこんなことするんですか!」

「親父になんか言われたんやろ」

 腕の力は強い。閉じ込められたままの美帆の肩が強張った。

「親父の言うことなんて聞かんでええ。アイツは美帆のこと利用してるだけや。俺のことも家のための手駒としか見てへん」

「な────なにを言ってるんですか。馬鹿なこと言わないでください。あなたのお父さんじゃないですか。そんなこと言わないで、仲直りを────」

「美帆!」

 抱き締めていた体が少し離れて、文也の顔がようやく見えた。

「もうええねん。俺と親父はとっくに終わってる。家族じゃないねん」

「そんな……」

「……美帆が離れて、親父の言う通り見合いして、少しは家に溶け込めるかもしれんって考えた。けど、違ってん。最初から俺らは家族とちゃうかった。だから今更仲直りとかは出来へんねん」

 そう言った文也がどれほど悲しそうな顔をしているか。本人は気付いているのだろうか。家族じゃない。仲直りもできない。そんな絶望的な言葉を紡ぐ瞳に涙が浮かんでいることも。

 美帆もつられて泣きそうになった。放り出された子供みたいに寂しい気持ちが伝わってきた。あんなに一所懸命やっていたのに、この人はまた一人になってしまったのだ。

「美帆は……親父に言われて俺と別れようとしたんやろ」

 どこかで真実を知ってしまったのだろう。美帆は今度は素直に頷いた。こんな状態の文也に嘘などつけなかった。

「アホやなぁ……。いや、俺もアホやな。見合い相手連れて会いに行ったりして、失望したやろ」

「どうして……会いに来たんですか! 私、たくさんひどいこと言ったじゃないですか! あなたを傷付けたんです! なのに……」

「でも……俺のためやろ……?」

 文也は涙を浮かべながら嬉しそうに笑った。

「そりゃ、辛かったで。俺は足りんことばっかやし、美帆に愛想つかされてもしゃーないねん。けど諦めきれんからしつこく会いに行って、また美帆に呆れられた」

 大きな掌が頭の上に乗る。それだけでなんだか安心できた。

「美帆は、自分が悲しいのより俺が悲しむのが嫌やってんな。だからあんなこと言ったんやろ」

 そうです。と、泣きながら口にした。けれど結局あまり意味はなかった。文也は傷付いたし、家族とも途切れてしまった。自分がしたことなど無意味だった。そう思うと余計に辛い。

「想像できへんことかもしれんけど、俺の親みたいに……子供のこと子供と思われへん親もおるねん。生まれた時からかは知らんけど、そうやってずっとやってきた人間に、今更仲良くやれって言っても無理やねん。三つ子の魂百までって言うやろ」

「……ごめんなさい。私が、余計なことしたから……」

「ちゃうで。美帆のおかげ」

「え?」

「俺、今からズルいこと言うけどええ?」

 美帆はおずおずと頷いた。

「親と縁切るって……思ってたよりも寂しいねんな。俺は嫌ってるつもりやったけど、無意識にどこかで期待してたのかもしらん。親父と別れた時そう思ったわ。でも、美帆がおるって思ったら嬉しかってん」

 文也は困ったように眉をハの字に歪めた。

「自分のこと大事にしてくれる人がおるって思ったら、会いたくなった。その人が今も俺のことどう思ってるか分からんけど、一緒におりたいねん。美帆」

 そんなことを言われて、どうして卑怯だなんて言えるだろうか。文也に残されたのが自分だけだと知ったら、同情するだろうか。

 そんなものは最初からない。ただあるべき場所にあるべきものが戻ってきただけのことだ。

「俺のこと……まだ好きか?」

「……めっちゃ好き」

 慣れない関西弁のイントネーションに文也が苦笑する。でも、その表情はとても幸せそうだった。

「……美帆、またドラマ見てたやろ」

 文也が玄関から部屋の奥の方を覗く仕草をした。また、という言い方がなんだか嫌味っぽいな、と思った。

「……そうですよ」

「一緒に見てもええ?」

「……仕方ないですね。でも、おつまみとビールしかないですよ。足りないかもしれませんから────」

「一緒に行こ」

 思っていたセリフを先に言われてしまった。既に文也の手は美帆の手を握っていた。行く気満々だ。

 あの時は否定したが、やっぱりそんなことはない。文也といると、たくさんやりたいことが浮かぶ。たとえばそれは、一緒にいることだとか。もっと先の未来の中にあるものが。
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