とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 受診表には心療内科と書かれている。小さく載っている地図を見て、綾芽は同じフロアにあるそこに向かった。 

 心療内科なんて受診するのは初めてだ。待合には何人かいたが、特に変わった人はいないようだ。綾芽が受付に受診票を渡すと、看護師は質問事項がたくさん載った紙を渡してきた。

「書けたらまた持って来てください」

 バインダーに挟まれた紙は三枚ほどあった。結構な量だ。綾芽はソファに座り、紙に書かれた質問に一つ一つ回答していった。

 質問事項は生活習慣に関するもの、仕事に関するもの、家庭環境に関するものなど様々だ。診察だけでは分からなことを調べるためだろう。嘘を書いても仕方ない。綾芽は見栄を張らず、できるだけ正直に書いた。

 ────心療内科って、一体どんなことを言われるんだろう。

 漠然としたイメージだが、精神的に患っている人間が行くものだと思っていた。実際そこに通っている人間を見たのは初めてだが、正直あまりいいイメージは抱いていない。

 一時間ほど待たされて、綾芽の番が回ってきた。綾芽が呼ばれた部屋の扉には、カウンセリングルームと書かれていた。部屋の中には、柔和な顔つきの若い女性がいた。ナース服を着ているから、医者ではなさそうだ。

「どうぞ、荷物を置いておかけください」

 綾芽は言われるまま丸椅子に腰掛けた。すると、一枚の紙と鉛筆を渡された。

「これにリンゴの木を描いてください」

「リンゴの木────ですか?」

 綾芽は戸惑ったが、言われるがまま想像で鉛筆を走らせた。リンゴの木は見たことがないので想像でしか書けないが、ここで正確性を要求されたりはしないだろう。何かのテストかもしれない。

 綾芽は三分ほどかけて幼稚園児が描くような簡単なリンゴの木を描いた。

「あの……あんまり上手くないんですけど大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ、これは立花さんの精神状態を知るためのテストですから」

 看護師は気にしないでください、と微笑んだ。

 それから看護婦にいろいろ質問を受けた。先ほど紙に書いた内容を確認するようなことだ。両親のことも、借金のことも、人に言ったことがないようなことばかり喋ったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。カウンセリングだから、相手も聞き上手なのだろう。しばらく話して、綾芽はまた待合に戻った。

 それから少しして、今度は診察室に呼ばれた。中にいたのは若い男性の医師だった。

 一体何を言われるのだろうか。綾芽はドキドキしながら医者の言葉を待った。

「そんなに構えなくても大丈夫ですよ。大きな病気ではありませんからね」

「あの、先生……さっき内科で自律神経がどうとか色々言われたんですが……治るんでしょうか」

「もちろん、治りますよ。立花さんの症状ですが、典型的な《《うつ》》の症状です。恐らく、ご家庭のことや仕事のことが重なって精神的に負荷が掛かったのでしょう」

「え、あの……うつって、あの……?」

 聞いたことぐらいはある。具体的なことは分からないが、気分が落ち込むことだと認識していた。だがそれは働き詰めのサラリーマンがなるようなもので、自分には関係がないものだと思っていた。

「うつは誰でもなるんですよ。立花さんのような若い女性でもなりますし、小学生だってなるんです」

「でも、今まで私普通だったんです。そんな急に────」

「人間はね、元気な時は色んなことができます。でも限界はある。立花さんの場合、空き巣のことが引き金になったのかもしれません。心の元気がなくなると、体は元気でも動かなくなるものなんですよ」

 自分がうつになるなど考えてもみなかった。毎日元気に働いていたのだ。今だって、どこかが痛いわけではない。綾芽は原因がわかって安心したが、それによってさらに焦りを感じた。

「どうやったら治るんですか」

「人によって違います。ごく数週間で治る人もいれば、何ヶ月もかかる人もいる。とにかく大事なのは、何も考えずに休むことです。心を落ち着けて、ゆっくりやすんでいれば自然と回復していきます」

「じゃあ……すぐに治らないかもしれないってことですか……?」

「うつになる人のほとんどは、責任感が強かったり強迫観念を抱いてしまって自分を過小評価してしまうことが多い。その原因は家庭環境だったり仕事の環境のせいだったりと様々ですが────立花さんはご家庭のことを酷く気にされているようでしたから、小さい頃からの刷り込みがあるのでしょう」

 医師の口調は穏やかだったが、綾芽は全く落ち着かなかった。考えるな、ゆっくり休め────そんなことを言われても出来るわけがない。自分は働かなければならないのだ。でないとまた俊介に迷惑をかけてしまう。

 まったくの他人の前なのに、勝手に涙がこぼれてきた。そこまで情緒不安定になっているらしい。

「大丈夫ですよ。大事なのは立花さんが無理をしないことです。今あなたは、自分が持っているお盆に乗せられる以上のものを乗せようとしている状態です。心が休憩しなさいと言っているんです」

 綾芽はゴシゴシと涙を拭った。自分の心の状態は理解できたが、気は楽にならなかった。

「気持ちを落ち着けるお薬と、眠れるようにするお薬を出しておきます。大事なのは気持ちを休めることです。難しいかもしれませんが、必ずよくなりますよ。また薬がなくなったら一週間後に来てください」

 綾芽は軽くお辞儀をして、ふらふらと診察室をあとにした。

 医者に言われた言葉がショックで、なかなか立ち直れなかった。

────休めばよくなるって言われたけど、いつまで休んでいたらいいの。

 医者のいうことはもっともだったが、綾芽はそれに素直に従えるだけの余裕はなかった。借金の支払いだってある。生活していくためには働かないといけないのだ。いつまでも俊介の世話になるわけにもいかない。

 なのに体はフラフラしてまるで重病人だ。会計を待つ間、綾芽はスマホで《《うつ》》について調べた。うつはどうやら、その人間の気質によってなりやすいことがあるらしい。どうもそれを見ると、自分はかかりやすいような気質をしているらしい。

 そして治すためには環境を変えたり、薬やカウンセリングなどの治療を必要とする場合もあるそうだ。そしてどのサイトにも、短期間で治るとは書かれていなかった。

 安心できる記事が見つけられないまま、綾芽は会計に呼ばれた。大きな病院だっただけに、領収書に書かれた金額は決して安い数字ではなかった。

 領収書を鞄に仕舞い、病院を後にした。

 マンションに向かって歩いているとスマホが震えた。鞄からスマホを取り出すと、画面には青葉俊介と表示されていた。もうとっくに昼を過ぎている。恐らく心配して電話して来たのだろう。

 だが、綾芽は電話には出なかった。病院に行くことは内緒にしている。外に出たことがバレたら、結果を尋ねてくるだろう。俊介に言えるわけがない。心配をかけるだけだ。

 医者はゆっくり休めと言っていた。確かに、俊介の家にいればそれができるかもしれない。俊介は料理を作ってくれるし、いつも気を遣ってくれる。自分のためになんでもしてくれる。だが、それがかえってしんどかった。

 ────俊介さんには甘えられると思ったんだけどな。

 優しくされると元気にならなければ、と脅迫されている気分になる。俊介が仕事のことを話すと、自分も働かなければと思ってしまう。やらなければ、自分がしなければ────。

 あんなに居心地が良かった俊介の隣は、今はただ苦しかった。
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