とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 次の週の金曜、綾芽は仕事帰りにそのまま俊介のマンションに行くことになった。

 着替えだけで後は手ぶらでいいと言われたので本当にそれだけ持っていったが、あとのものは俊介が用意するらしい。それだと用意が大変だから持っていくと言ったのだが、俊介は大した手間ではないからと言って聞かなかった。

 このエントランスを潜るのも久しぶりだ────。綾芽は暗唱番号で開く扉の前に立ち、俊介の部屋の番号を押した。インターホンの音が少しの間鳴って、俊介が出たのか、音が途切れた。

「あの、綾芽です」

『入って』

 スピーカーから声が聞こえると、エントランスの扉が開く。こういうことができる単身者用マンションはなかなかないだろう。綾芽はまた感心しながら俊介の部屋へと向かった。

 部屋の前にあるインターホンを押すと、十秒も立たないうちに扉が開き、俊介が出迎えた。

 俊介はすでに私服に着替えていた。いつもスーツを着ているから分からないが、私服を着た俊介はなんだか違う人間のように見えた。着ているのは普通のシャツとジーンズなのに格好良く見えるから不思議だ。

「お疲れ様」

「あの、お邪魔します」

 この部屋に来るのは数週間振りだ。相変わらず綺麗で整っている。綾芽はまたモデルルームに来たような気分になった。あれから特にものは増えていないが、テレビボードの上やダイニングテーブルの上に花が飾ってあった。

「お花買ったんですか?」

「綾芽さんが来るからあった方がいいと思って」

 綾芽は花瓶に近づいてまじまじと花を見つめた。花瓶も花もシンプルだが、センスよく見えた。執事をしていたと聞いているからだろうか。わざわざ用意してくれたのかと思うと嬉しかった。

 部屋に隅っこに荷物を置くと、俊介がいるキッチンに向かった。シンクは洗い物の一つもなくて、水垢一つ残っていない。普段から綺麗に使っていることがわかる。

「夜はまかないが付いてたんだよな?」

「はい……あの、俊介さんはご飯はもう食べたんですか?」

「食べたよ。食後のデザートがあるけど食べるか?」

「デザート?」

 俊介は冷蔵庫からラップをかけた小さなグラスを取り出した。中身はケーキかなにかだろうか。買ってきたものには見えないが、俊介が作ったのだろうか。

「俊介さんが作ったんですか?」

「ああ。ティラミスだけど食べれるか?」

 綾芽は思い切り頷いた。俊介は嬉しそうに笑い、カトラリーを用意し始めた。

 綾芽も何かしようと思ったが、なにせ人様の家なのでものの位置がわからない。勝手に動くと逆に迷惑かもしれないとうろうろしていると、「座って待ってて」、と言われたので大人しく椅子に着いた。

 待っていると、俊介が先ほどのグラスをトレーに乗せて持ってきた。さっきのグラスをそのまま出しただけでも十分なのに、何やらトッピングにミントまで乗せられている。自宅で出すクオリティーのデザートには見えない。

「わざわざすみません」

「仕事終わった頃にはお腹減るかなと思ったんだ。気にしなくていいから、食べてみて」

 綾芽は一口食べてみた。濃厚なマスカルポーネチーズの味とわずかにコーヒーの味がする。意外に軽い口溶けで、しつこい味ではない。甘さも控えめで食べやすかった。

 俊介は綾芽が食べる様子を嬉しそうに笑いながらそばで見ていた。

「美味しいです」

「よかった。また食べたいものがあったら教えてくれ」

「俊介さんはデザートも作れるんですね。これじゃ私がしてあげられることなんてないかもしれません」

「執事は言い換えれば家政婦みたいなものだからな。けど、俺にも苦手なことはあるよ」

 俊介にも苦手なことがあるのだろうか。あまり想像ができないが、俊介のようになんでも完璧にこなす人間にそのようなところはないように思えた。

 綾芽は最後の一口を口の中に運んだ。甘くてまったりとした味がゆっくりと口の中で溶けていく。

 グラスが空になると、俊介はそれを片し始めた。綾芽は慌てて立ち上がった。

「あの、洗い物ぐらい私がやります」

「いいよ。ゆっくりしててくれ」

「でも……」

「俺みたいな男と付き合うなら、甘やかされるのに慣れてもらわないと。知っての通り、俺は君に《《なにかしたがり》》なんだ」

「……ごめんなさい。嫌なわけじゃなくて、慣れないんです」

「じゃあ、俺も綾芽さんに何かお願いする時があるかもしれないから、その時は色々やってもらうかな」

「なんですか?」

「その時になったら言うよ」

 なんだかはぐらかされたような気がするが、気のせいだろうか。もしかしたら、俊介は自分のキッチンに人を入れたくないタイプなのかもしれない。それなら余計なことをすべきでないと、綾芽は黙っておくことにした。
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