とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 二人と別れた後、綾芽は俊介と街を歩いた。実のところ、こうしたデートはかなり久しぶりだ。

 綾芽は毎日のように仕事を入れていたので、会うのはいつも仕事終わりの夜だけになっていた。

 俊介はそれに文句も言わずいつも心配してくれるが、本当は不満を感じているのではないだろうか?

「どうかしたか?」 

 無言のまま歩いていた綾芽に俊介が尋ねた。

「あ、いえ……こうして二人で歩くのは久しぶりだなと思って。いつも仕事ばかり優先にしてごめんなさい」

「生活の方が大事だからな仕方ないよ。まあ、俺はそのおかげで綾芽さんに色々できるから有り難いけどな」

 この頃はアパートの前で仕事終わりの綾芽を待っている俊介にも見慣れてきた。最初の頃は申し訳ないと思っていたが、俊介は言っても聞かないしむしろ楽しみにしているようだ。綾芽も俊介に会えるのは嬉しかったから彼は厚意をそのまま受け取っていた。

 俊介は来るたびにどこかで買ってきた弁当を差し入れしてくれる。彼は自分の分のついでだと言うが、そんなものは嘘だととっくにわかっていた。

「あの……前から気になっていたんですけど」

「なんだ?」

「俊介さんは……なんで私のこと呼び捨てにしないんですか?」

 俊介に呼び捨てにされたのは初めて彼の家に行った夜が最初で最後だ。あの時は雰囲気もあったのかもしれないが、彼はそれ以降、綾芽のことをさん付けで呼び続けていた。

 本堂は聖のことを呼び捨てにしているし、年下なのにさん付けはなんだか妙な気分になる。嫌なわけではないが、純粋に疑問だった。聖のことは呼び捨てにしているが、それは単に幼馴染だからだろうか。

「綾芽さんを呼び捨てにするのは……なんだか嫌なんだ。軽んじてるように聞こえる」

 俊介らしい回答に、綾芽は思わず微笑んだ。けれど、呼び捨てにされた時はとても嬉しかったのだ。またいつか、機会があればあの時のように呼んでくれるだろうか。

「俊介さんのそういうところ、好きです」

「……俺は君のそういうところが困る」

「え?」

 俊介はふてたような顔をして綾芽を見つめた。まさか、照れているのだろうか。俊介のそんな顔を見て、なんだか嬉しくなった。

「俊介さん、照れてるんですね。可愛い」

「歳上をあんまりからかうのは感心しないな」

 急に歳上ぶったりして、それもなんだかおかしかった。俊介にもこういうところがあるのだ。十五歳も歳上なのに、意外と子供っぽいところも残っているらしい。

「綾芽」

 不意に名前を呼ばれた。その名前は以前聞いたときとは違って、なんだか甘酸っぱい響きがした。

 これは俊介のささやかな仕返しらしい。なんともいえず黙っている綾芽を見て、俊介はまた口を開いた。

「綾芽が好きだ」
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